2007/11/25

普通のもの。  議論

友人の廣瀬純から「映画における労働の拒否」と題された、日仏学院で行われたドゥルーズ『シネマ』についての彼の講演の原稿を送ってもらい、読んで心が洗われた。最近やたらと苛立たされたのは、批評的言説において「部分」を語ることによって「全体」への評価が可能であるかのように振舞う怠慢な姿勢であったが、そんなありもしない「部分」や「全体」の区別を廃棄し、ここでは「普通のものから特異なものが生れる」現象としての映画が見事に語られていた。つまり、ひとは言うことがないときに俳優の素晴らしさだとかショットの素晴らしさだとかに言及することによって「だからこの映画は素晴らしい」などと評価を定めがちだが、そうではなくて、仮にそれがどれほど素晴らしいとしてもその素晴らしさを構成しているものが実に「普通のもの」であることを踏まえて素晴らしいなどと口走ることを禁欲し、宇宙に解き放つように評価を留保するのが現在の批評的言説の持つべき倫理であろう、と私には思われてならなかったのだが、ここでは私には説明できなかったそのことの重要性を非常に丁寧かつ念入りに解説してくれている。
評価の留保こそがわれわれにとっての「労働の拒否」であり、そこにおいて「反‐実現」は可能となるのではないか。評価を留保し、反‐実現を目指すことで行われるのは、議論または延々と続くおしゃべりである。そしてそこから新たな映画が誕生してきたのだし、これからもそうなるはずだ。議論をやめたら映画は止まる。もうずいぶん長いこと誰とも議論していない。おしゃべりさえしていない。個別作品の話はしても、大枠の映画全体にかんする議論はない。
ゆえに私の映画は止まっている。

昨日はバンド練習。CDプレイヤーが壊れていたり、アンプのプラグが壊れていたり、といろいろトラブルがあって、いまいち集中力を欠いた。
ヴォーカルがめんどくさい。ヴォーカリストの必要を痛感。

ちなみに、おそらくいま新作映画で「普通のもの」を観ることはほとんどできないだろう。かつての小津作品に言えた「普通のもの」といま呼べるものはトニー・スコットやタランティーノのフィルムにしかないからだ。そしてそのことはほとんど理解されていないように思われる。
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