2007/12/20

なぜかジミヘン的日常  日常

昨夜からジミ・ヘンドリックスばかり聴いている。いや、正確には旅の間もジミ・ヘンばかり聴いていたが、なぜか最も気になる『アクシス』を持っていくのを忘れたので、帰ってからはこればかり、しかも《リトル・ウイング》ばかり繰り返し聴いている。改めて言う必要はないだろうが、このイントロがあまりに美しゅうてやがて哀しく、よきロックナンバーは世に数多あれど、ひとりの人間が一本のギターだけでやれることの限界状況はやはりこれに尽きる、と思われてならなかった。で、これを何度も聴いているうちに感じたのは、つまりジミ・ヘンの音というのはエレクトリック・ギターがコイルを巻いたマグネットという仕掛けで拾われることにどこまでも自覚的である、といえばよいか。ここまで磁石と一体化したギターの音というのは、同時代にはあまりないのではないか。そう、今度出る佐々木敦氏の新雑誌「エクス・ポ」で青山真治が普段あまり見せない情熱で書いているシド・バレットや、少しあとになるけどミック・ロンソンにも同様に磁石とかコイルとかを感じる。結局はあのクライベイビーに繋いだときのトレブリーな歪みのせい(あと、弦ノイズを切らずに残すことも)にすぎないのかもしれないが、しかし同様のエフェクターを使う他の有名ギタリストにそれを感じた記憶は、とりあえず、ない。そういう意味でジミ・ヘンと最初のピンク・フロイド、あとロンソンとコンビ時代のデイヴィッド・ボウイーだけは、同時代にワイアットのやっていたあのバンドとはまたべつの「ソフト・マシーン」という称号に相応しい気がするのだった。そうしてその後そういう音というのはサーストン・ムーアたちの登場までめったに聴けなくなる。
それと、どうもファーストと『エレクトリック・レディ・ランド』ばかりが持て囃される傾向はいつまでも消えないのだが、各楽曲の粒立ちといいギミックを抑えた抜けのよいシンプルさといい、97年まで発表されなかった未完の四作目『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』の自由闊達さに最も近いのは『アクシス』だと思われ、ファンクを念頭に置いたものをすでにその段階でやっていたことが確認されつつ、一方でむしろ一枚目や三枚目のほうが白人社会への妥協を余儀なくして作られた、という疑いさえ生じさせはしないだろうか。もちろん一枚目や三枚目の出来が悪いとは思わないが、オクターバーによる多声性(のちのマーヴィン・ゲイを想起させる)などの試みを含めたバンド・オブ・ジプシーズという「ブラック・ムスリム」を経由したあとの「来たるべき音」のほうをどうしても信頼してしまう。

それにしても私のギター遍歴というのは、結局ジミ・ヘン・コンプレックスだな、と自分で考えてしまうのは、つまりストラトを決して持とうとしないことに顕れているのだが、不在の中心としてのストラトキャスター=子供の頃、自宅に兄によって導入された最初のエレクトリック・ギターの、あたかも天皇のごとき眩い威光への根源的な不信というか嫌悪は、先日の近畿大学でのトークセッションで指摘されたことにも繋がって、私という作り手の根源に関わる問題の一部を形成するのだった。
また、それ以上は神秘主義の領域だろう、ということでもある。
私がいま映画で行おうとしている《カツゲキ》ということは神秘主義の一歩手前で踏みとどまろうとすることでもあるという話は、間違っていないと思う。

そんなわけでやっぱり今日も試写に出かけられず家に閉じこもっていた。要するに全身から疲労が噴出しているのだった。
0



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ