2008/7/16

メルド!  映画

さる先輩K氏と対談。といっても軽いジャブ程度のもの。なかで「淡々と」という言葉ほど映画をダメにする形容句はなく、あらゆる「面白い」映画は決して「淡々と」なんかしてない、という当たり前の結論(言うまでもなく小津を中心に)が出た。どんなにその「淡々と」とやらが世間でもてはやされようが、事実でないそれを受け容れることをわれわれはやらない、という少年探偵団の結束を固めるような話に。あと、最後になって氷解する「謎」ってやつもたんにつまらない、という話。これらをわれわれのドラマトゥルギーは排する、という、これもすでに織り込み済みの認識だが、あらためて確認しあった。
一緒に途中まで帰り、私はLJへ。敬愛する大友良英氏と再会、御著書『MUSICS』とCD新譜『コア・アノード』いただく。いつもすみません。本当は当夜行われたライヴを見たかったのだが、対談のために諦めたのだった。氏は翌朝出発でマルセイユへ行くため成田泊とのこと。ヴァイタリティという単語が脳裏に横溢する。

そんで昼間はラスカルズ。ヤングのついてた頃のアルバムはかつて愛聴していたが、取れたほうは実ははじめて。ブルー・アイド・ソウルという売り文句に惹かれて購入。しかしまだ三枚しか聴けてないが、これのどこがソウルなんだろうか。クリームとか初期ジェスロ・タルとかの延長線上にある、というかそれらへのアメリカからの解答的な、ただのいわゆる「アートロック」でしょう。抑制のないやりたい放題のオルガンの使い方とか、無駄なドラムソロとか、ソウルとまったく関係ないよ。まったくゾクゾクしない。ただ、だからといってダメだとは思いません。イギリス人よりやはりアメリカ人のほうが底抜けにバカで、笑える。
あとはアン・ピーブルズのHiコンプリートの二つめとO・V・ライト。まあ、だからつまり、これがソウルだってことで。

夜、日仏にて『TOKYO!』試写。オムニバスというのは罪な形式で、レオス以外の二作にまるで興味なくても必ず一本は見なければならないようにレオスの『メルド』は二本目、つまりまんなかに入っている。だから、積極的に見たくないゴンドリーを見ざるをえないのだが、伊藤歩さんがいつものように微妙な表情の推移を見せてスリリングな他は映画と呼べる代物ではなく、なぜこんなひどいセットのなかに加瀬くんが出ているのか不思議でならない、もったいない話だと呆れるばかりの数十分をそ知らぬ顔でやり過ごす。で、レオスである。こういう天才大爆発みたいな作品を見ると、映画を撮る苦労がみじめったらしく滲み出しているようなあれやこれやがいかに貧しいものであるか思い知らされる。あらゆる画面がただ「映画」として「活劇」として、しかしこれ以上なく輝いている以外の価値を決して求めようとしない潔さ。これ以上の美徳があるだろうか。ところでふと思ったのだが、いついかなる場合でもレオスの目的はゴダールを粉砕することであるように見えた。もちろん、そこにもゴダールからの引用(嶋田久作さんの帽子、エンディング)はある。だが、レオスにとってはそれもどこにでもあるただのかけらに過ぎない。言ってみればヴィトンやエルメスと同じだ。自分が捻り出したわけでもない借り物の概念をガキのようにただの憧れでふりかざしたりすることは決してない。まして「東京」や「日本」についてなんらかの社会学的見地を披瀝するといった下卑たまねもしない。そんなもの、映画と何の関係もないからね。映画を作るならどこだっていい、東京?……日本?……ああ、ゴジラと大島だな、で終わり。あとは「映画」を作るだけである。セットのひどさも気にしない。暗部にして見えにくくすれば済む話だからね。しかしそれは、ゴダールが巻き起こす周辺のあれやこれや付加価値をゴダール自身の問題として直接批判することでもあるのではないか。タランティーノがようやく至ったかに見える境地ですでに自在に泳いでいるレオス。心から、つねにこうありたいものだ、とひたすら感心させられ、終わった瞬間に席を立った。最後のものを見なくて済むように一番後ろに座っていたから、どなたにもご迷惑をかけずに。
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