2008/7/30

そんなサークのひとりごと〜2  映画

「しなくちゃいけないことは、とことん嫌って愛することです。『心のともしび』の素材に対する私の最初の反応は、困惑と嫌悪でした。それでも、その非理性的なところに惹かれたんです。ある意味での狂気にね。オブセッションにね。こんなものがあっていいのかと思えるほど、おぞましく狂ったストーリーですからね」「狂気はとても重要で、それが『心のともしび』のような馬鹿馬鹿しい素材を救ってくれるんですよ。これが弁証法です。高尚な芸術と馬鹿馬鹿しさのあいだには、ほんのちょっとの距離しかない。狂気の要素を持っている馬鹿馬鹿しい話は、まさにそのために芸術に近づくんです」

「マクマレイもスタンウィックも見事だった。でも、もうひとりの女性の配役(たぶんジョーン・ベネット)と脚本に難点があったんだと思いますよ。それに、この映画には、もともと予定されていたカラーが必要だった」「要は子供はほんとうに純真なのか、ということです。わたしはそうは思いませんね。子供が持っている純真さは壊されてしまうんです。子供は純真さではなくメランコリーの象徴なんです。映画ではふつう、新しい世代が登場することを見せるために、最後に子供を出す。わたしが自分の映画で見せようとしたのは、まったく逆のことです。これは何度も繰り返される悲劇の幕開きだと思いますからね……」「明日は昨日で、フレッド・マクマレイは、いまだに自分の玩具で遊んでいる」

……運動!運動!運動!ですべてを推進していく(いかずにはいられない)『心のともしび』の二年後に、あらゆる要素をフレーミングと反映(これはすでに『南の誘惑』の庭の池で半ば無意識に試されている)に還元してみせる『いつも明日がある』へ至る。それにしてもどうして雨のロサンジェルスの花売り娘からこの物語を始められるのか、その発想の源を理解できない。のちのちの、襟につける花の連鎖に繋がることはわかるとしても、プロデューサーをこれで納得させる(もしくはプロデューサーがこれを納得する)ことがありえるのがわからない。現在では望むべくもなく、可能性さえ棄ててしまっている発想だと思われた。これはもうほとんど野田・小津コンビの域に達しているというべきではないか。「脚本に難点」が? まさか。この脚本は完璧だ。あらゆる「よくできた脚本」が腑抜けにしか思えない。フレッド・マクマレイがリゾートに行く際に新しいスポーツ・ジャケットに「着替え」る。息子が「目撃」する際にスタンウィックは、寒いからとショールを取りに部屋へ戻る。息子の恋人が「密告」しようとするとジョーン・ベネット(おそるべきドS顔)がスタンウィックの見立てた服を「試着」して現れ、それを「妨害」する。息子と娘が押しかけたホテルの部屋で、スタンウィックはいそいそと口紅直しをするが、その果てに彼女の顔にかかるのはガラスの向こうを流れる雨の影である。それらがたとえ元のシナリオに書かれていなかったとしても、これらが完璧でないと誰に言えるだろう。盲目のワイマンが博士たちの声を聞き分ける時点ですでにロブ=ボブ・メリックと気づいていることがわかる『心のともしび』の百倍、洗練されている。もしあのロボットがテーブルから落ちていれば、それは露骨過ぎる表現で、洗練からはかけ離れていたことだろう。あのロボットが落下する、それを観客が想像するだけでよい。それが洗練ということだ。そのおかげで人類の凡庸さは救われる。
それにしても、サークの「顔を見せない」演出は卓抜すぎて、どうやって指示するのか知りたくてしかたない。あるいはラッセル・メティが「ここは影にして表情をわからなくしよう。そのほうが洗練されている」などと耳打ちするのか。いずれにせよ、凄い、の一言に尽きる。あの、スタンウィックが部屋に戻りカーテンを閉めたときに、さっと闇に消えるマクマレイの顔。残念だが成瀬も増村もこうしたことはやれなかった。やれたのは溝口だけだろう。しかも、あれらの物語にかろうじての信憑性を与えているのは、実のところ俳優たちの「顔」なのだ。

……とまあ、一晩経ったらあれこれ言えるのだが、見終わった直後はあまりに凄まじい人間描写のためにただ呆然とするしかなかった。これほど呆然としたのは『残菊物語』以来だ。あまりのことに言葉を奪われた口を呑むつもりのなかった酒で塞ぐしかなかった。

……でもダグラス、悪魔のようにドMな画家が「監視」する窓のあるあの手術室、いくらなんでも豪華すぎくね?www
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