2008/7/30

そんなサークのひとりごと〜3  映画

「わたしがこの企画の話をしてまわったとき、みんなに「なんてタイトルだ、その『標識塔』っていうのは。まるで電気関係の用語みたいだ」って言われましたよ。プロデューサーのザグスミスは「空中セックス」って名づけたがってましたがね。脚本のザッカーマンが「錆びついた天使たち」にするって告げたとき、ザグスミスの開口一番の言は「ベッドは地上にあるんだ。天国にじゃない」というものでしたよ」「原作は完全に映画用に脚色されたが、登場人物のほうはフォークナーにかなり従っているはずです。ロジャー・シューマンは自分の正体をつきとめようとしている。この男は足が地についていない。足元の地面はまったく安心感を与えてくれない。で、彼は空中に確実さを求める。これは狂った考えだ。そして、すばらしい考えだと思う」「(デヴリン)は、空のインディアンのような飛行機乗りたちの狂った世界を映し出す小奇麗に磨かれた鏡なんです」「彼がまったく動じないってわけじゃないところも気に入ってます。彼は変わるんです。最初のうち、彼は驚きの目で見つめ、かなりウブで、出来事を映し出す鏡に過ぎない。エキセントリックで一見人間離れ人間たちと、そのアクションの反道徳的イメージを映し出す鏡にすぎない。はじめのうち彼は、飛行機曲芸をやっているシューマン一座に心を動かさない。でも、そのうち彼の自覚が高まっていく。生半可な好奇心が憧れへと高まっていく。それはセクシャルなものでもあるし、ブルジョワ世界の型に嵌った彼のお行儀よく梳かされた髪や、お行儀よく整頓された精神のなかに、もともとあったものでもある。で、けっきょく手堅い靴で地面を踏んでいる自分よりも、空のジプシーたちのほうがずっと足が地についていることを悟るんです」「この映画はかなり受けましたね。で、ザグはわたしと「征服されざる人々」(フォークナーの小説)をやりたがったんですが、実現しませんでしたね」

「これは変わった類のラヴ・ストーリー、状況に条件づけられた愛の物語なんです。ふたりは自分たちの愛を持つことが許されない。周囲の殺人的な吐息が彼らの愛を妨害するんです。ふたりは廃墟から廃墟へと駆りたてられる。愛する者には愛するための行き場所がないんです。昔ながらのレストランのシーンを覚えてますか? 愛するふたりは、失われた過去の人生の模倣をするんです。そこには幸せなときがある。そう見える。食べ物もある。くつろがせてくれるランプもある。光がある。ふたりの愛が世界をもとに戻す。ドカーン! それが破壊されてしまう。わたしがやりたかったのは、彼らの愛と廃墟の関係を描くことだったんです」「でも、わたしはそんなに悲観的じゃないんですよ。ときどきそう見えるかもしれませんがね。わたしは幸せを信じてます……。幸せは存在しなくちゃならない。じゃないと幸せを壊せないでしょ。完璧な幸せなんてへたっくそな詩みたいなもんですよ……。『愛する時と死する時』に「ハッピーエンド」がつけられていたら(中略)愛するふたりが幸せのわずかな時間に交わす痛々しいまでの優しさは伝わってこなかったでしょう。破滅を運命づけられたものだけが、ここまで痛々しい優しさを持つことができるんです。長続きするものにもそれなりの美しさはあるでしょう。でも、そこには束の間のものだけが発するあの不思議な力はないんです」「この映画には上出来の戦争の場面があるし、ハリウッドにありがちな嘘っぱちじゃないと思ってますよ。で、敵の姿が見えない。ここはとても気に入ってます」「ドイツ人は、亡命者が戦時中のドイツの生活を描くのを許しませんでしたからね。どんな描き方であってもね。五十年代後半のドイツでは、だれもかれも自分を憐れむことに徹してたんですよ。今でもそうですよ(中略)これが、わたしがドイツに住めなくなった理由のひとつです」「(グランドピアノのうえの焚き火の場面)はカットしたかったですね。(中略)あからさますぎちゃいけないんです。ナチスについての映画は、たぶんもっとあからさまなところを避ける必要がある」

……『翼に賭ける命』の後半、飛行機のオーナーのところへ行こうとするドロシー・マローンをアパートの階段で引き留めるロック・ハドソンのジャケットの襟が立っているところがある。どうするのか、と思って見ていると、その襟を会話の終わりにマローンが直すのだ。これはどういう発想から出てくる演出か。女と男が親密になっていくための接触として「襟を直す」というのはかなり常套手段だとは思われるが。ちなみにその後もハドソンの襟が立っていることがあるが、そのときはいじらなかった気がする。飛行機修理の朝、ハドソンが目覚めるとたくさんのかもめが宙を舞っている。それを見上げ、つづいてまだ修理を続けているパイロットとメカニックを振り返る。かれらは自分よりかもめと同類(JLG……)なのだ、と考えるように。あと、本日の二作ともに街娼が出てくる。『翼』のほうは会話を聞かせずにそれと分からせる。それにしても『翼』は見直せば見直すほど、その異形なる頽廃に冷え冷え感が増す。逆に『愛する時』は見るたびに目から湧き出す濁流の量が増す。あからさまに対照的な、しかしどちらもサーク純度の最も高いもののうちの一本であることはたしか。『愛する時』でもプロポーズの直前に当然のごとく「着替え」があった。しかも男女双方で。あと「素肌の傷」というのも『アパッチの怒り』などと繋がりつつ、最終的に『悲しみは空の彼方に』の、スーザン・コーナーの褐色の肌へ結晶されることになる。クラウス・キンスキーの登場とともに後方のお客さんから「うむ」というような低い唸りが上がったのが可笑しかった。キンスキーはひとを徹底的に見下しながらへんに甲高い声で喋るキンスキーにしかできない変態芝居をすでにここでしていて、超素晴らしかった。同じゲシュタポでも、ピアノの上で焚き火する男の数倍、非人間的。このキンスキーと対照にあるのが、窓枠のパセリの鉢植えだ。究極のリリシズム。

……本日、つっこみどころ、なし。てゆうか日々、完膚なきまで魂抜かれてるぜ、ダグ。
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