2008/9/15

グレミヨン認識元年  映画

『刑事物語』は現在に至る汎地球的警察映画の作り方の先駆とも思われる。ただしそれが面白いかと問われると、いやべつにそうでもない、と答えざるをえない。それが『ダーティー・ハリー』のようではないことを特権視する必要なんてないだろう。私にとって警察映画、犯罪映画として『刑事物語』より『ダーティー・ハリー』のほうがはるかに貴重であることは相も変らぬ現実だ。あるいはここでのパリよりあそこでのシスコのほうが、といったほうがよいかもしれない。警察映画、犯罪映画を作るときに街の光景をどう見せるかは決定的であるはずだが、ピアラはそこに興味を持たない。尋問シーンも一見面白いが、ではこれの隣に『桜の代紋』のそれを置くとどう見えるだろうか。ただ、この映画の面白みは完全に内容を離れ、ドパルデューがバーのマダムに絡んだり、ラストに彷徨したりする場面にあったような気がする。それらはまるで作品のなかにべつの映画が現れたように見えた。それらのことに散漫という批判が当てはまらないところが現代性というやつなのかもしれない。

『曳き船』は、これまで自分のなかに封印してきたある決定的な事柄を吐露せずにおかない作品だった。つまりどれほど凡庸であろうと、自分はブレッソンよりグレミヨンを択んでしまうだろう、ということ。これは人生の選択だ。とても他人とは思えない。もっと早くそのことを覚悟すべきだった。そうすればこれまでずいぶん見逃してきた上映のあるたびにグレミヨンを見て、このとことんまでの居心地の悪さを堪能できたのに。ついこないだまで子供だったから自分の凡庸さを認めることが恐かったのだ。あの曳綱の切れる間際の、ヒュンヒュンいう音が耳から離れない。まるで自分と映画を繋ぐ綱が引きちぎれるかのようで背筋がゾッとする。一刻も早くどこかでグレミヨンのレトロスペクティヴをやってくれないだろうか。嵐の晩に残された妻二人を家の中から窓外まで1カットで見つめるキャメラが、ただそれだけのショットであり必ずしも作品に有意義な貢献をしているわけではない、ということは百も承知だがしかしあれをやりたい、というのが映画作家というものであり、それをやめるというマゾヒズムをひとり密かに享受するために映画監督という職業を懲りもせず続けているのが自分という存在なのかもしれない。あの、ギャバンとモルガンが見に行く海辺の家の場面だけでいいから繰り返し何度も見ていたい。あそこには私を心底陶然とさせるなにかが居心地の悪さと同じだけ、あった。自戒をこめて今年を「グレミヨン認識元年」と呼ぶことにしよう。

最後は『三重スパイ』を字幕つきでようやく。DVDで見たときから気になっていたが、色彩がたいへんなことになっている。ナイターの室内で白い壁が紫!とか。この回一緒に見た撮影監督の池内氏との帰り道に意見を伺うと、フィルターもけっこういろいろ手を変え品を変えやっているだろうけど、さらにコンピューター上のカラコレ(DI)でかなりいじっているであろう、とのことだった。それにしてもこれほど残酷な物語だったとは。しかもエピローグで平然とナチス将校とヴィシー政権刑事が真相をテキトーに推理する、といういかにもひとを食った終わりよう。しかしよく考えたら今回最年長監督作がこれなんで、演出も当然のように一番うまい。カットバックなんてほとんどホークスの域だし、時代劇であるにもかかわらずちゃんと風景を逃げずに勝負している。主人公の声がへんに甲高いのに興味を惹かれた。女性たちの衣装がどれもこれもあまりにも素晴らしくて、やはりこの時代の服が自分は無条件に好みだと再認識した。
0



コメントを書く


この記事にはコメントを投稿できません




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ