2008/10/7

韓国は近い、近すぎる  ツアー

酔いどれて眠った翌朝、怒涛の如く家を出発。それほど早く出かける必要はあまりなかったようだが、ごく平穏に羽田で搭乗。初めてお会いする方々もいれば、久しぶりの再会に笑顔を交わし合う方々もいる。席は課長改め団長の隣。江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)へ行く前に清涼里(チョンニャンニ)を見ておくべきだ、という情報。

それはそれとして、自分がいかに集団と狭いところが苦手か思い知らされる日々である。ひとりになると、あるいは広い場所に出ると心底ホッとする。しかし韓国、というかこの文学フォーラムの名称どおりに「東アジア」と呼んだほうが妥当だろうが、そこで望まれていることは「集団化」である。問題なのは、ひとりで部屋に閉じこもって作業をする小説家や詩人とちがって、映画監督というのは他人と面突き合わせつつてめえでその場を仕切る義務感に振り回される時間がかなり長い職業だということ。仕切らなくていいんだよ、とてめえに言い聞かせ、普段部屋に閉じこもっている方々の躁状態にバランスよく合わせているのはかなり大変だ。団長のようにギリギリのところで安定を保っておられる方がいてくれてはじめて、私も居場所を確保できる。

当地に着いて二日間のシンポジウムも終わった頃、チョンニャンニにはもう「飾り窓」=「オーパルパル」はない、との情報を得た団長は、遊覧船での朗読会ののち我々を永登浦(ヨンジュンポ)へと誘ってくださった。その朗読会で故郷の先輩詩人は「無法松の一生」を華麗に斉唱し、それを受けた団長は講談調で返したが、ヨンジュンポではあまりに畸形的な女性らの脚の細さ長さに一同引くばかりなのだった。なるほどそのようなことか、とただ納得しヨンジュンポを去ろうとした私と団長は批評家の口からふと漏らされた「中上が」の一言でさらに誘われ、どこともしれぬ高速道路の下、防音壁の外にある隠された世界(その後そこがミヤリ峠テキサス村……なんでテキサスかは不明……と呼ばれる地であると判明)へと赴くのだった。生命の危機(大袈裟!)さえ感じる今回最大の冒険。街は閉ざされている。だがそこにいる商売上手なおばさんが鍵を開け、サッシ窓と黒いカーテンを乱暴に開くと、白がすべて眩く蛍光するブラックライトの下、謎のドレスを着たお嬢さんたちが座っている。彼女たち、華やかに美しいのだがこちらとは違う意味でまったくやる気ない。その目隠しされた裏通りにある屋台で我々はしみじみと焼酎をもう一杯。一晩ではディープコリアをざっと一瞥したという程度にすぎないが、ただこの街が大阪や北九州のある部分を思い起こさせることはまちがいない。前夜、団長のバックコーラスとダンサーを務め、三か国の文豪たちの前で大いに恥をかき、泥酔し、記憶をなくした私も、日本では清原が胴上げとともにグラウンドを去ったというこの夜の一部始終(と幻滅)についてははっきり記憶している。

とまれ、休日の昼をひとり延々とビル街の(それなりに)高級ホテルの部屋でまたしても酒を呑みながら過ごす外国滞在の典雅さよ。しかし戸外からは謎の大音量で繰り返し聞こえてくる〈ホテル・カリフォルニア〉。いったい人間の進化というのはなにのことを指すのか、どんどんわからなくなっていくソウル滞在なのだった。つい四十年前まで「土小屋」と呼ばれる穴に棲む貧民に溢れていたというこの地に澄まし顔で立っている高層ビルには隠しごとなどできないのに、隠しおおせているかのように振舞うのはナンセンスだ。文学はいまでも生きているふりをして自由を叫ぶが、いくら大声で叫んだっていまその自由は女が春を売り男が春を買う現実の外側にしか存在しない。もちろんそのことは韓国にかぎられた問題であるはずがなく、進歩しない人類すべてに課せられた宿命だ。

それはそうと、井上ひさし氏の義父ということになる米原昶(いたる)というひとのことと、一緒に討論の場に座らせていただいた黄ソ(析の下に日)暎(ファンソギョン)という韓国の小説家に非常に興味を持った。米原について詳しく知りたいし、ファンさんの小説は近いうちにぜひ読もうと思う。
あと、京都の誇る若手宮廷女流の発したあまりに雅なる「ドストエフスキィ」のイントネーションに深い感銘を受けた。……皆様、目を閉じて幻聴されたし。

夜に出かけたインサドンの韓国料理屋はまことに美味で、すっかり上機嫌。そののち団長と合流して行ったテハンノの居酒屋のドンドンジュもなかなか美味であった。その晩はすぐに眠りに就いたが、明け方目覚めてからへんに不安定でヤバくなる。なんとか荷作りしてチュンチョンに移動。が、行きのバス内で心臓がバクバク言い始め、腰から上がひん曲がるような痛みを覚える。何度もバスを停めて東京へ帰ろうという気になっている。どうにか近くにどでかい青空マーケットが見えたチョンニャンニの駅で電車に乗り換えてもなお、この苦痛は消えない。田舎の風景が広がってくるにつれてようやくいくらか落ち着きを取り戻す。キムユジョンという今年生誕百年の夭折した国民作家の名を冠した駅で下りそこからバスと船(今年はよく船に乗る)で「冬ソナ」で有名らしいナムソムとかいう遊園地に移動、食事と自由時間。食事中、団長が雷オヤジと命名した中国の大詩人による見事な即興書画をゲットして大喜びの故郷の先輩詩人と故郷の若き文豪、そして酒豪女流らとともにドンドンジュを求めてウロウロ。そのうち時間となり、そのキムユジュンの生家を建て直した文学村のイベントに輸送される。そこでの長い長いイベントと日が落ちてからの寒さの過酷だったこと。しかしそれを超えて余りある美味なる食事。夜も更けてようやくホテルにチェックインした我々は選伐隊を組織、車で十五分ほどの場所にあるバーへ。やっと寛ぐ。泥酔。

翌日は朝九時から「本業」。大学で二時間ほどのトーク。昼飯は近所でのんびりと思いきやまたしてもバス移動して冷麺。これはうまいなあ、と思っていたのは日本側(てか俺)だけのようで、通訳の子たちには不評だった模様。また大学へ戻り、上映前のトーク。これで自分の役目は終わり、通訳さんとともに近所のカフェで麦酒。夕方になり上映を見てくださっていた酒豪女流がどこからともなく登場。曰く、上映は途中で強制終了、全員追い出されたと。画面サイズは間違ってるし、部屋は明るいしトホホとしか言えない。ま、DVD上映ですんで。夜はなにを食べたかどうも思い出せず。二次会は三国対抗カラオケ大会。私は二番手並びに故郷の若き文豪のニルヴァーナでヘッドバンギングダンサーを演じた。最後は上半身裸、さらに一緒に踊った中国の年上作家に握手を求め、各国のド顰蹙を買う。中国では年下から握手を求めてはならないそうだ、ってああ、日本でもそうか……でもまあそういう役割だし、てことでへろへろになり、その後のことは曖昧。

そんなわけで帰国した。心の底から安堵。アカデミスティックな文学空間とのお付き合いもこれが最後だ。ちなみに帰りの飛行機では爆睡する酒豪女流のお隣で『ハンコック』を見たが、鍵爪の爆弾魔がハンコックの搬送された病院に現れるところで終了。韓国は九十分の映画も終わりまで見れないほどの距離なのだ。さすがに再度二番館に確認に行くのも面倒なので、すでに見ていた義母に、ディテールはともかくオチだけは聞いておいた。

しかし帰ったと思ったら〆切二連発。慌てふためきながらなんとかやりこなす。特に二個めは某賞授賞式と重なっており、しかしそのまま呑んだくれるよりいまは日銭を稼ぐときだと早々に引き揚げた。で、今日は今日とてケーブルテレビをめぐる家のドタバタに収拾をつけるべく奔走、それだけで毛沢山であったとさ。
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