2009/4/28

やっとブレヒトが(ちょっとだけ)わかった!  演劇

元来、戯曲というものが読めない。かろうじてギリシア悲劇とシェイクスピアくらいは、といった体たらく。ブレヒトもかつてまじめに取り組んだこともあったが、やっぱりダメだった。だが上演された舞台を見ればこれがたいへんよくわかる。やはり現代演劇は肉体を得なければ表現が全うしないのだろうか。
土曜、打合せから上海小姐で食事、さらにひとり流れた、とあるバーで聞いた『アビー・ロード』のB面が頭で鳴り止まぬまま休日を過ごし、週明け。
シアター・コクーンにて宮本亜門演出・三上博史主演『三文オペラ』。ちいさい頃から――といってもごく当たり前にドアーズがあって『ロスト・イン・ザ・スター』があって、という意味だが――慣れ親しんだクルト・ヴァイルが鳴りはじめると、もう〈ゴールデン・スランバー〉は吹き飛んで頭の中でロッテ・レーニヤが舞いまくる。しかしその〈モリタート〉が済んでしまうとその後しばらく前半はどうも乗り切れない部分もあったが、三上・田口のデュエットによる〈大砲ソング〉あたりから徐々に盛り返し、二幕のフィナーレで涙腺が緩みはじめ、逆さになっても人間は歌えるのかと〈ソロモン・ソング〉の秋山奈津子に驚き、エンディングではとうとう滂沱の涙、となった。
パンフには『ダーク・ナイト』のヒース・レジャーを意識した、とあるが私には『スウィーニー・トッド』を想起させ、あのジョニー・デップと同格、いやそれ以上に豊かな三上博史の演技する肉体(衣裳、ステッキ、帽子、メイクも含めて)を経由したメッキーの辿り着く、なんと深い孤独。痛ましすぎてわが身も捩れる。裏切られるから孤独になるのではなく、赦され救われることでかれは恥辱に塗れ、本来的な孤独に押し戻される、という逆説。反転。それを三上は、三時間を経た最後のたった数分で見事に曝け出す。これはもう『三文オペラ』があって三上がいるのではなく、三上のために『三文オペラ』があるのだ、と言っても過言ではないのではないか。
三上さんの同時代人であることを(またしても)誇りに思った。
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