2009/5/24

頭と心臓の問題、ふたたび  演劇

三軒茶屋シアタートラムにて、清水邦夫・作、生瀬勝久・演出『楽屋』。演出は申し分なく、それに応える俳優陣も実に安定した力をみせている。力作である。ただ、これほどの才能を結集してもどこかのボタンが掛けちがっている気が私には残った。なんだろう。これは自分でも全く答えが出ない、きわめて厄介な話であり、現代において演劇をやるひとたちはそんな議論など飽きるほどなさっておられると思うので、後追いに過ぎない問題なのだろうが、私はこの戯曲を漱石ふうにいう「頭」の問題だと感じた。つまり「思考」とか「想念」とかそういうものである。しかし、演劇が飛び抜けるとき、それが「心臓」の問題、「存在」の問題になる、というようにここ最近見ていて、思う。この戯曲でも、ことによるとそれも可能だという気もしたが、ここでは最後まで飛び抜けることはなかった。なぜだろう。あるいは、このことはいくら考えても答えの出ない難問なのかもしれないし、答えはたった一回の公演によって突然生まれ落ちるのかもしれない。
たとえばその問題は小泉今日子氏と蒼井優氏の役をチェンジすることで解決しないだろうか、などとも考えた。実は小泉氏(「総括」という一語の決定的違和)は蒼井氏の役の芝居のほうが向いていて、蒼井氏は小泉氏の役に向いている、と。年齢などは無関係に。でもやはりわからない。困難な問題だ。いずれにせよ「頭」に留まっているかぎり、解決はしない。「心臓」に到らなければ表現が完成しない。同じ清水戯曲の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』では「衝動」と呼んでいたそれ、そこをめぐって右往左往、七転八倒するしかない。
いずれにせよこれは私自身の問題だ。それがそうなっているかどうか、そこへ行けるかどうかはつねに私自身こそが晒されている場だ。それを前もって、ちゃっかり、用意することは決してできない。映画だろうと演劇だろうとひとがそこに立ち会うとき、その耳に心臓の鼓動が届いているかどうか、その目に関節のごきごき動く様が届いているかどうか、皮膚と衣裳が擦れあっている感触が届いているかどうか、そこだけが問題なのだ。そんなことを考えながら仕事なんかできないよ、と嗤われるかもしれない。だが、これは私の願いだ。目的と言ってもいい。
演技の優劣など、映画のみならず演劇においてもたいした問題じゃあないのだ、ということもよくわかった。そんなことも含めて、重く受け止めさせられた芝居だった。
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