2009/5/25

偉大なる生と死の切り返しショット  日常

町内の掲示板に、近所で猫殺しがあったという主旨の警察による張り紙があった。うちは放し飼いなので気が気でない。放し飼いをする家に対して自粛を促すレトリックかと疑いたくなるほど信じ難い。

一昨日の朝、鳥の死骸がリビングに放置されており、それはうちの猫が殺したのではなく、たんに死骸を拾ってきただけだとなんとなく分るのは、死骸の破損がひどかったからで、これまで見てきた経験から言えば殺すときはあっさりやるから破損はそれほど深刻ではない。明け方、仕事場から戻る途中にその張り紙を見て、すぐ傍にどうやら猫らしい糞が落ちていた。あるいは小型犬かもしれないが、うちの連中のものでないことがたしかなのは色がまるきりちがっているからだ。毎日トイレ掃除しているので色はよく分っている。ゆえに、猫を擬人化することなど到底不可能で、そこではただ無数の点として拡がってゆく痕跡との「切り返しショット」が生産されるばかりなのだった。徹底して深さを欠いたこの「切り返しショット」は、同時にあらゆる生命の循環する世界と連続している。

放し飼いに話を戻すと、われわれは猫に本来知って当然のことを知る自由を与えるべく放し飼いにしているが、一旦与えた自由に責任を取る覚悟も出来ている。それは外敵、つまり異常者によってやつらが虐待を受ける可能性もその「知って当然のこと」に含まれることを分っている、ということだ。だがわれわれもそんな最悪の事態を不断に想像するために生きているわけではない。もしもそんな最悪の事態が起きたら、ただ嘆き悲しむだけしかない。それでも自由を奪うよりはましだ。生命の循環する世界には、たとえ殺されても守るべき権利というものがある。それを考えるのが不肖人間であり、猫を擬人化してそれを平等に分け合おうなどと虫のいいことを言えるはずがない。無論できるかぎりのことはするけれど、畢竟呆然と、漱石的離人症の視点でもって眺める、それがあるばかりだ。
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