2009/7/26

トニスコ魂、炸裂!  映画

トニスコ最新作『サブウェイ123』には「激突」という言葉が邦題には付されていて、しかしどこにも「激突」は出てこず、あ、いや、一箇所、身代金を運ぶパトカーが事故を起こす盛大な「激突」はあるのだけど、それは話の根本とはあまり関係がないので、所詮は邦題か、と流すことにするが、それはともかく、映画自体は「激突」の有無にかかわらずたいへんに素晴らしいものであることは、オリジナルというか元ネタの『サブウェイ・パニック』の素晴らしさとはほとんど関係せず、あえてオリジナルの素晴らしさを剥ぎ取った上でそこに独自の素晴らしさを築き上げる、その手腕の素晴らしさと同義であると思われた。いまやお家芸と化した三点間のシーンバックが予想外の早い段階で現れることに驚くのは、それ以前にタイトルバックの監督クレジットが入るまでの間で事態がすべて動き出しているというその速度ともかかわっているだろう。なぜそこまで早さにこだわるかといえば、そこから先の時間を登場人物の誰もが世にも凡庸な存在であり、すべては「運命」だか「偶然」だかで決定されることになんら抵抗力を持たないということをきっちりと描くべくたっぷり用いるためである。ほとんど脚本家ブライアン・ヘルゲランド的主題の範疇にありながらそれを超えて行く、こういうときのトニスコは実に立派だ。どこにも説得力という名の言い訳をつけようとしない。ただあっけらかんと、しかしきわめて正鵠を得た瞬間に投げ出される世界のかけらの数々(鼻の絆創膏、PC、黄色い袋、ネズミ、青いボタン、牛乳、Made in NYのビルボードなどなど)が、その「運命」だか「偶然」だかによって敷かれたのかそれともそんなものは存在しないのかよくわからないレールに乗って運ばれていくだけだ。映画はつまり、午後1時23分ぺラム発の地下鉄のようにほとんど任意に択ばれたように見えるものであることを美徳とするのだ。ここにトニスコの素晴らしさがある。市長もマスコミも記号にはせず、必要な情報をドラマ上に提供しつつも善でも悪でもないただひとりの凡庸な存在として描かれることの清々しさ。この冷酷なまでの凡庸さの描写によって、トニスコはフリッツ・ラングに現在の誰より一歩近づく。性格上勿体をつけるということを自分に許さないけれど、それでもずっと「二時間越え」の作家と思われたトニスコがいつ以来か、一時間四十分台をマークしたのも何かの兆候だろう。この性格がいよいよ露になったのか、ともあれ本作で兄リドリーやマイケル・マンに対してトニスコが圧倒的優位に立ったことは誰の目にも明らかになるだろう。

土曜はイベントがあり、その前にG街に立ち寄ったり、池袋ではロサのすぐ近くのビルの八階にいい店を見つけたり、いろいろあった。バカなやつのいいかげんさでカッと来たりもしたが、まあそれをしつこくひきずっても時間の無駄だ。
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