2009/8/13

エスニックが繋ぐ高円寺とヨコハマ  探究

「座・高円寺」という劇場にはじめて足を踏み入れた。ここで「MASARA」というバンドのライヴを撮影するためである。無国籍かつユルユルかつ超絶技巧の「MASARA」は、そのスリルも含めて実に心地よい音を提供してくれる。ただ、このハコはちょいとその音とずれている気もしないではなかった。かれらの音楽はもっとかれらのようにユルユルな場所に相応しいのかもしれない。もっとも、伊東豊雄設計の「座・高円寺」そのものは、昼間からワインをたしなむことのできる非常に文化的なカフェを有する優れたユルユル空間でもあるのだが。高円寺がちょっぴり羨ましくなった。
久しぶりのライヴ撮影は腰に来た。ある限られた持続する時間の緊張は、頭も体もフル回転する。どっと疲れて、撮影・今井と助手・松宮とともに一杯ひっかけて帰ろうとしたのだが、盆にしてどこも満杯。高円寺、おそるべし。結果、ようやく一軒見つけて入ると、主催者・大木雄高氏および「MASARA」メンバー、スタッフがやがて合流。そこで思いがけなく大木氏と平岡正明の死について語る。

ちょうど畏友がそのブログで平岡について書いていたのを興味深く読んでいたが、正直これまで平岡の文章に惹かれたことはあまりなかった。畏友は「国境線上」という言葉で平岡を評していたが、この概念をいまどう捉えたらいいか、正直戸惑う。うちの親と同世代で樺太生れの太田龍や竹中労とともに一時代の言説と行動を担っていたのは間違いないにしても、それより十以上年下の平岡にとって「国境」とは「占領」「基地」との関係において捉えられていたものだろう。つまり「国境上」にありながら視線は常に内に向いていたということか。たとえばジャズを愛することにしても内向きの思考に思われた。平岡は本郷の人で、しかしその「国境」をのちにヨコハマに求めたが、そのヨコハマの大仏次郎の子供たち、矢作俊彦や東郷隆といった平岡に勝るとも劣らない博覧強記の小説家たちが有するヨコハマ性との差異は明確である。かれらはいとも易々と「国境」の内外を行き来した。その段階で、というのはつまり竹中の亡くなった九十年代初頭あたりには、平岡らの役割はとっくに終わっていた感が否めない。もちろん記録としての重要性に異論はないが、たとえばその後の「犯罪」史が刻む内向性は、もはや平岡の言った「革命的」という言葉とはまったく相反するものでしかない。

私にとってヨコハマは「国境」、というよりは「租界」であるがゆえに長年聖域だった。そうしていまもやはり聖域だ。コストコでさえ、その身も蓋もなさに首を傾げないわけにはいかないが、それでも聖域の一部であることはまちがいない。むしろ退廃だとしてもあの身も蓋もなさもまた「租界」ヨコハマの現在なのだろう。
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