2009/9/8

「映画の現在」消滅のお知らせ  映画

同時代の同ジャンルの作品に接していちいちその様相に畏怖を覚えたり嫉妬したり、あるいは軽蔑したりすることこそが作り手の情動というものだろうと思っていたが、いま若い、といっても私より、という程度だけれど、誰も彼も自分のことにしか興味が向かないように見えるのは、自足に甘んじる作り手をもって自他に安心を提供する媒体の差し金なのか、そこはさだかではないものの、すくなくとも「ごっこ」という上目遣いな言葉だけは口にするな、という提言だけをもって全否定したくなるのは「文學界」十月号の特集〈映画の現在〉だ。若手作家を紹介するという趣旨(ウチ一名、ロートルが隙間を見計らって場違いなことを好き放題書いているが)のようだが「さっき見た映画」について誰一人なにも語ろうとしないのはどういうわけだ。この「体温低い感じ」が「いま」なのだろうか。十年古いと思うが、それにしても、だとしたら「映画」に「現在」もへったくれもない。そんなもの、さっさと消えて亡くなればいいのだ。……と編集部も考えていたのだろうか、インタビュアーたちも考えていたのだろうか。この水槽のなかで観察されている自足しきった珍獣たちはいかにもサンプル然としていて、むしろ哀れだ。
それにしても不思議なのだが、佐々木敦にしても大寺真輔にしてもどうして黒沢清より上の世代に出向いていかないのだろう。まさか二人とも本気でここに「現在」があるなどと思っているわけではなかろう。たとえばいまなら白土三平に手を染めた崔洋一監督にインタビューした方が断然歴史的意義を持つと思うが。その仕事をかれらにやってもらわなければ困るのだ。しかしまあ、ここでもまた媒体の不在を憂うばかり、ということか。それとも機を見て敏な「ユリイカ」あたりがやっているのだろうか。だといいのだが。「映芸」で世代間闘争抜きに馴れ合ったおしゃべりで流されても、また閉口する。

なんていううんざりなことを考えた日にいつもの鼎談の末席を濁し、ようやく(すくなくとも精神的には)元気を取り戻した、げんきんな私。
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