2009/9/15

西部劇「のようなもの」二本立て  映画

気を取り直して、というか新宿ピカデリーでしかやってないと判明したので、やれやれ、と意地を張るのをやめて『3時10分、決断のとき』へ行き、さらにバルト9で『グッド・バッド・ウィアード』を。
マンゴールドのほうは、初めてクリスチャン・ベイルをいいと思ったが、ベイルを見るとどうしてもこれよりあとに作られたはずの『ダークナイト』を想起させられ、ほとんどホモでサイコなやつが登場するという点も『ダークナイト』と同じで、するとこれがいかにも、こないだ書いた「『スパイダーマン3』以後のアメリカ映画」に見えてしまうから、いささか中途半端な古典派と思えていたマンゴールドもついに白旗か、しかしむしろそのほうが気楽でよかろうとも思われた。始まり方や主人公の肉体的ハンディに自身の刻印を持ち込もうとしている作家主義的感性は認めるけれど、果たしてそれで先達を乗り越えられるだろうか。いや、乗り越えるとかそんなことはどうでもいいと思っているのではなかろうか。もはや、西部劇なんだからキメのロングショットぐらい見せろ、とか、抒情がしっとりと画面を濡らす瞬間を見せてくれないものか、なんてないものねだりをしてもはじまらないのだ。この「のようなもの」感や潔し、ということにしてあげたい。同世代のいまひとりのジェームズ、グレイの新作『Two Lovers』でも濡れ場を披露していたヴィネッサ・ショウがこちらでも麗しきケツを露にしており、個人的にはこちらのほうが好みだった。

それにしてもどうも前半、DLP上映だった気がしてしかたない。途中からどうでもよくなってしまったが。DLPだとしたら損した気分になるのは、ただこちらの貧乏根性に過ぎないのだろう。

『グッド・バッド・ウィアード』のほうは、western byなどと調子に乗った監督クレジットを入れているが、たとえばタランティーノは『イングロ』が「戦争映画」でさえなく、ただ「これは自分の映画である」という孤独な宣言とともにしか映画にはなってくれない、という状況に苛酷なまでに自覚的だったのに対して、そうした悪ふざけがあくまで映画史におもねったように見えて全然イケてない、ということをわかってない。その上、演歌な泣き節を入れてくれないレオーネもどきなどレオーネもどきでさえないからそこにも失敗している。こうした出来損ないとタランティーノを分けるポイントはそこに尽きる。役者陣の頑張りに対して、さして気の利いているわけでもないあれこれをおつまみに出すだけで気づいたらメインディッシュはなし、というか、あれがメインだったの? みたいな惨憺たる結果に終わるしかないのだった。カツゲキに手を出すのは百年早い、という感じ。メリハリのない長ったらしいアクションシーンで眠くなったのはいつ以来だろう。せっかくの機会だったのに残念だった。でも平日の昼間なのにお客さんはよく入っていて、いまだって金をかければこの程度の映画もちゃんとヒットするのだ、と教えられた。
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