2009/12/3

眼は脳の一部である……  映画

見ろ見ろと薦められてようやく『脳内ニューヨーク』を。
題名どおり、昔懐かしい「脳の映画」NY版、と呼んで差し支えあるまい。見ている間は気にも留めなかったが、原題のsynecdocheは「提喩・代喩」を意味する。「類で種を、また一部で全体を(またはその逆)表す比喩」なのだそうだ。冒頭の歌や途中で出てくるナプキンの「スケネクタディ」というNY州北部の田舎町(たぶん郷愁=歴史の「代喩」だ)の名前がひっかけてある。たしかにそのものずばりな意思は感じ取れる。ロケしながらわざわざCGで空に天蓋を描きこみ、サマンサ・モートンの役をエミリー・ワトソン(たしかにこの二人、ときどきどっちがどっちやら、と混乱する)が演じ、フィリップ・シーモア・ホフマンをトム・ヌーナンやダイアン・ウィーストが演じる、その部分に亀裂(ひとは「代喩」たりえない)を生じさせつつもそれをオブラートに包むように主題として前面に押し出さないのはチャーリー・カウフマンの公明正大な倫理というか良心にはちがいない。また、体験から追体験へ移行する編集の、既視感を援用した速度などは実に見事な手捌きである。撮影にフレデリック・エルムスを起用する辺り、ニューヨーク派を襲名せんとする意気込みも買おう。だがそうした「問題作」であることは認めつつ、どうしても支持したいと思わせない。好きになれない、というか。どこか1カットでも、おっ、というショットがあればそれで全面的に肯定したかもしれないが、一切そんなショットはないのだ。それを禁欲的と賛美することも不可能ではないが、いまさら禁欲などされたってなあ、という感じだ。というよりむしろそういうショットの撮り方を知らないのではないか、という懸念がある。これはスパイク・ジョーンズの映画を見ても同じことを感じる。それとちょっと長すぎる。これを80分〜90分でやってのけていたらそれだけで、お見事!と認めていただろうが。
どうやら週刊誌では「ひとりよがり」などという言葉で批判されているらしいが、それはとんでもない言いがかりであり、お門違いだ。これほど滅私奉公的な映画も最近珍しい。そもそも「脳の映画」は、作家個人の外部に設けた厳密にアカデミックな理論に基づく設定を構築した上でドライヴするしかつくりようのないもので、そこでは独善はそれこそ「禁欲」せねばならない。だからそこが麗しくもあり、同時に弱点でもある。魅力的な「ひとりよがり」=ショットがない、というのはそういう意味だ。「脳の映画」全般の限界も、だからそこにあったにちがいない。
現代において映画がもし弱くなったとしたら、誰もがそのような魅力的な「ひとりよがり」をなす術を忘れてしまったせいではないだろうか。ほとんどいわゆる自虐史観的に忘れさせられた、とでもいうか。自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『26世紀青年』ばりに(見てないけど)そこらじゅうに溢れている。
かといって、では「身体の映画」が勝利したかと言えば全然そんなことはなく、むしろこちらのほうが先にダメになっていった。日本でのカサヴェテス解釈の根本的な錯誤がその見本だろう。

なんにせよ、考えさせられた作品であることはまちがいない。

ちなみに主人公の名前ケイデン・コタードはあきらかにJLGにひっかけてある。ガッデム、ゴダール、といったところか。


北朝鮮でデノミ暴動の予感。うーむ。もしかするともしかする。
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