(↑前に、庭の木のことを同名で書いた記憶があるので)
クリスマスの頃によく思うのは、アメリカでよく売られているクリスマスツリーのための木のことです。
大きさは様々ですが、大人の背より高い木が殆どで、中には、有名なニューヨークのツリーのような巨木もありますけど、あれらはいったい、どれくらいの寿命の木なのでしょう?
根っこから移植するのではなくて、切って持ってくるのだから、当然、クリスマスシーズンが終われば、生きた木としての利用価値はなく、薪かなにかとして利用するのでしょうね。
しかも、毎年このシーズンに切られるのは、相当の数の木なのでは。
本物志向、ナチュラル志向のほうが、正しい気もしますけど、でも、この場合は、プラスチックで作った同じ模造木を毎年利用する方が、資源の有効活用なんじゃないかなあ、と感じてしまいます。
あるいは、木を植えておいて、それを毎年使うか。
話変わって、福島。
いつも旦那を車で送っていく道で、秋頃、ふと、「あれ、今日はいやに風景が明るいような?」と思ってよくよく見ると、それまで公園の道沿いにあった10mはある大きな木が、9本ほども、切られていたのでした。
おそらくは、メンテナンスの問題なのでしょうが、もともと木が生え草が生えて、熊やイノシシがいた場所を切り開いてできた場所、先住者を、後からやってきたこちらの勝手でポンポン取り除くなんてのは、どうも居心地が悪い思いがします。
多分、水はけや水持ちの面でも大切な役割を負って、木はそこに生えるべくして生えていたのだと思うのですけど、もう後の祭りです。
また先日のローカルニュースでは、十二支の木彫り12コが完成したあるホテルで、今度は百何十年とかの大木で、十二支全部を彫ったものを作りたいと話していたのにも、ちょっと違和感を感じました。
100歳の木は、100年生きてきた場所で、そのまま生き続けた姿で見ていたいような。
福島には、樹齢1000年という滝桜があり、保存にも力を入れていますが、他の多くの名もない木たちにも、それぞれ存在の意味があるはずだよなあ。

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