その昔、国定忠治が赤城山に立てこもったのは、自らヤクザを日陰の身と自認し、「堅気の衆に迷惑をかけてはいけない」という思いからでしたが、そのヤクザの仁義ともいうべきものほど、当節、どこへ行ったか分からなくなったものは無いようです。
だいたい、相手が絶対に敵わない武器や人質を持って立てこもるなんてのは、甘え以外の何者でもありません。
例えば無人島でそれをやってご覧なさい。
当たり前ですけど、誰も見向きもしないし、自分の要求が通るわけもありません。
誰か相手がいるから出来ること、親が困るのを見据えて、子どもが「おもちゃ買って〜!」と泣きながら座り込むのと同じです。
子どもならまだかわいいし、まだ分別の付かない年頃だからとあきらめることも出来ますが。
そんな大人げない犯行のために命を落とさないと行けなかった方々が、ほんとうにお気の毒です。
犯人よりず〜っとずっと価値のある人生を送るはずだったのに。
犯罪に良い悪いはないですけど、いい年こいた大人の、子供じみた犯行ってのは一番たち悪いですね。

0