最近病院のボラやってて、変に疲れること。
ボラによって、自分なりの判断基準があって、それを共用(←ほんとは”強要”でしたが、こっちでもいいかな)されることです。
もちろん、大まかなマニュアルはあるのですが、細かい行動は、その人に任せて、というのが実情です。
たとえば、車いすで駐車場までお送りしてもまったく構わないと言う人もいれば、そこまでお連れする必要はないと考える人もいます。
少しでも歩ける患者さんには、車いすをと求められても応じないでよい、と思っているボラもいれば、車いすをお持ちするボラもいます。
ボラの人数は、患者さんの数に対して絶対的に少ないので、なるべく多くの患者さんのお手伝いをしたいと思うボラもいれば、一人の患者さんを最後までお手伝いしたいと思うボラもあり、いろいろです。
でもまあ、どんなやり方であれ、出来るだけお手伝いが出来るに越したことはないので、やれる人はやる、やらないで良いと思う人はやらない、というやりかたでも、そんなに支障なくやっていけると、始めは思ってました。
が、困っているのは、同じ基準を他のボラにも求め始めたことです。
もともと、ボラの活動限界とか目的、行動基準などは、ボランティアシステムを立ち上げた病院側が、あらかじめ決めておくべきことだったと思うのですが、病院としても、「ボランティアでやってくれてるのだから」と言う変な遠慮があって、言えないのかも知れません。
ボランティアシステム自体が、日本に馴染んで日が浅いということもあるでしょう。
ボランティアは、日本では、やるほうもやってもらうほうも、まだまだいわゆる”奉仕的”な感覚だけが先走って、システムとしてしっかりしていない感じがします。
「ボランティアでやってるのに」と、いやな思いをさせられたボラの口から愚痴が出ることもありますが、そうではないのだと思います。
ボラと職業のちがい、それは、お金をもらっているか、いないか、それだけなんです。
笑い話のようですが、これはアメリカにボランティアシステムを勉強に来られてた日本人の方の通訳(もどき!)をした時に、ボランティアコーディネータから聞いた言葉です。
ボラだから何をやってもいい(悪事は論外)と言うものではなく、ボラだって、所属する組織の一部として、その組織の方針を理解してそれに応じた活動をしなければ、効果は上がりません。
ボラ本人も、ちゃんと活動に必要な教育を受けることで、自覚やプライドを持って活動にのぞめるんです。
特に、ガイドのような、その組織の”顔”ともなりうる場所で働く複数のボランティアの場合、これは重要です。
そういう基盤なしに、ただボランティアを始めると、皆が(もちろんある程度の節度はありましょうが)好き勝手な方向に進むことになり、長い間には確実にひずみが出てきます。
そのひずみが修正されたところで、はたして、当初の目的に添ったボランティアシステムが残るかどうかは、疑問です。
アメリカのボランティアは、キリスト教の精神か?と言う問いに、そうではないと、こともなげにそのコーディネータは答えました。
新地アメリカにやってきた時、人間の数はとても少なかった、だから、互いに、複数の仕事をやらなければ生きていけなかったんだ、だから、ボランティアは、この地で生きていく上に必要なものだったのです、と。
ボランティアは、”ボランティア”というプロであるべきだと思うんです。
今日は、ちょっとえらそーっすね。(ポリポリ・・)

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