2015/8/31  22:19

親閲式拝受  昭和史
戦前の青年、19歳の手記を読み、文字を起こし(パソコンで文字入力)をしている。中学の級友から譲り受けた『御親閲を拝受して』は、手書きを複写、印刷・製本(B5判)したもので、結論として戦争最前線に赴く前の記録、選ばれた千葉県木更津の一人の青年の昂奮が赤裸々に綴られている。この著者・曽我部孝氏は、大正11年生、昭和19年、22歳で戦死している。名も無い一市民の記録で貴重。生きていれば93歳、ひとかどの人物だった筈。

この親閲式とは昭和16年05月22日のことで正確な記録は、ネットには詳細な記録がない。ただユーチューブにNHKの映像ニュースが残っている。皇居前に於ける昭和天皇の閲兵。以下はその解説の要約。
≪畏くも天皇陛下には、皐月の青葉映える22日午前10時から、宮城二重橋前広場に行幸。青年訓練実施15周年を記念する、青年学校生徒御親閲式に親臨された。内外地18000余校、320万青年学校生徒から選ばれた参列男女代表は34000人。龍顔(りゅうがん)を間近に拝して、一同はただ恐懼、感激。10時5分、男子部隊の分列行進は開始。天光は大内山の緑に映え、銃後(戦争最前線ではないとの意味)青年の溌剌たる行進を展開すれば、陛下には挙手の礼を給い、産業戦線の若き戦士の上に、ありがたき極みだ≫

親閲拝受記念碑」の記事を発見。「広報しばやま」に書かれる二川村とは現在の千葉県山武郡芝山町、成田市に隣接する。役場庁舎脇の一角に「昭和十六年五月二十二日 御親閲拝受記念 二川青年学校」と刻まれた高さ90センチの石碑が建っているとの由。この記念碑に刻まれている昭和16年5月22日、青年訓練実施15周年を記念する青年学校生徒御親閲式が皇居前で行われたとある。前記の曽我部孝氏の手記と一致する。二川青年学校では、校長も御親閲式に参列していて、それを記念して学校の敷地に石碑を建てた。

青年学校とは、殆ど知らなかったと言っていい。今の中学・実業高校の6年と大学1年を合わせたようなもの。当時でも普通の中高と違い既に一次産業に従事している青少年の実業補習の歴史はあったが、昭和10年、教育改革があり「青年学校」ができた。設置は地方自治体、文部省・陸軍省の協力で職業実務と軍事教練が主目的。実業補習乃至軍事教練なら単純に兵士の育成の感じがする。太平洋戦争末期は生産最前線の男性が次々に戦争最前線に送り込まれた現実を想起せざるを得ない。

大日本帝国陸軍研究の第一人者・保阪正康氏が言う“日本列島を兵舎”にした現実は、昭和18年秋の「学徒出陣」にまで至る。これを軍国主義だったからと言うのは容易い。論理の飛躍と言われればそれまで、見て見ぬふりだった新聞メディアの責任は重い。新聞・放送メディアの人間が生命を賭して軍部に抵抗した話はほんのわずかだ。昭和20年08月16日から、さあ民主主義だと簡単に論旨を変えたのも新聞だった。

手記には難字があった。19歳だが当然、全編旧仮名、旧字で句読点も希薄。氏名や地名に慣れるまでは、読解・文字起こしに苦労している。

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