2015/12/6  22:04

更新120 親閲式  パソコン
筆者の中学生(昭和32年〜昭和35年)時の友人より譲り受けた『御親閲を拝受して』は、私家版の昭和史だった。これは戦前の罫線用紙に書かれた原文をそのままスキャンしてB5判の冊子にしたもの。著者は昭和19年12月、戦病死しておられる。大正11年生の曽我部孝氏はこのとき22歳、19歳のときの昭和16年、昭和天皇への親閲式に臨んだ手記。友人より貰い享けた冊子は2カ月掛かって手書きの文字の文字起こしをした。今ではなかなかお目に掛かれない文言と、聞けば簡単な“木更津”の文字さえ当初判読が困難だった。

ネットでは「親閲式」の記録は僅かにNHKアーカイブスの動画くらいである。当時の青年学校34000人の参加者があったのにである。もうこれは殆ど忘れ去られている近代・現代史なのだろうか。残念の極みだ。

青年学校とは当時の教育法制の一環だ。12歳で高等小学校を卒業すると中学、高校、大学へ進学する者も居た。国民の90%が貧民であったなら、それは僅かだ。これを補う形の教育制度が青年学校だった。13歳より5年間、今で言う実業高校、専門学校に類推できる教育機関があった。普通科2年、本科3年の計5年間、更に二年間の師範学校も用意されていた。曽我部氏は大正11年生だから昭和10年入校、16年に卒業した。

甥の曽我部員義(かずよし)氏本人にインターネットで公開することの承諾を昨日、了解された。「親閲式」の詳しくはホームページに「更新120」に記述した。
記事の内容は“天皇讃歌”である。これを単純と決めつけるのは容易い。平和で長閑な現在の尺度、現実の物差しでは戦前は全てが邪悪だ。筆者はそんな尺度は持たない。戦前、国の命令で応召した無垢の若者を非難するなら筆者はそれを許さない。学徒出陣の有名大学出身者だけが取り上げられるのはあきらかに偏見である。
ここでは随所に出てくる語句を解説する。
叉銃(さじゅう)
 銃口付近を頂点に複数の銃を組み合わせ三角錐状に立てること。
咫尺(しせき)貴人の前近くに出て拝謁すること。
鹵(滷)簿(ろぼ)天皇の行幸

添付は手書きの文字、19歳の手記だが、古希を過ぎた筆者が最後まで読めなかったのが下記の添付。1行目「企画院」は判読できたが、そのあとが読めなかった。当時は東京都ではなく「東京市」だった。「教育局前等」は程なく解った次第。昔の鉛の活字の印刷の時代、文選・植字を思い出した。悲しいかな、“咫尺”“鹵簿”は辞書に頼った。

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