2016/9/19  23:15

百姓の素養  身辺些事
筆者の母方の祖父は、いわゆる入婿。明治時代は、都市部でない限り農業をなりわいとした「村社会」、三代前の実家は、子供が居なかったので分家の長女を養女にした。これが祖母、そこへ祖父が婿に来た。「産めよ増やせよ」の時代だから、小生の母を含めて8人の子を生した。祖父母は、明治から昭和にかけての百姓暮らし。養育も生活もたいへんだっただろう。

孫の筆者の幼少時代、昭和30年代もまだ完璧な専業農業。個人的事情があって、小学6年生の一年間、食えなくて預けられ、この実家で“居候”を余儀なくされた。昭和31年のこと。だから戦後の農業の一環を知悉している。実家の伯父には5人の子が居た。同齢の従兄弟も居た。食卓は壮観だった。10人がテーブルに並んだ。

当時は味噌、醤油、茶は自家製、米・野菜・葉タバコが現金収入だった。むろん水道はなく井戸水の使用だ。牛が飼われ、豚も飼っていた。耕運機・化学肥料が浸透する前の昭和30年代、祖父は急な坂を、肥桶を担いで何度も往復した。肥桶の中身はむろん人糞。それが当たり前だった。

鍛えられた筋肉ゆえか、耳は遠いが祖父は、昭和58年、94歳まで生きた。戦前・戦後を通していわゆる百姓ひとすじだった。祖父は他家の次男か三男だったが、それも当たり前なのか、書道と俳句の素養があった。祖父が優秀なのではなく明治時代の村の基本的な習わしだった気がする。

添付は、昭和41年、祖父が喜寿のときに母が貰い受けたもの。俳句としていいのか悪いのかは知らない。筆遣いはかなり慣れているようだ。

 過去 楽も苦もすぎて戻らず喜寿の春
 現在 身の無事をねがいつつする仕事かな
 未来 何処までも昇りてみたし年の坂

 昭和四十一年秋吉日
  翠峰書

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