2016/10/20  21:15

インパール作戦 小論05  昭和史
輜重・兵站
輜重(しちょう)=軍隊の食糧・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
兵站(へいたん)=軍事装備の調達、補給、整備、修理および人員・装備の輸送、展開、管理運用についての総合的な軍事業務。

結論から云えば、日本の無残な戦争の結末は、現実・物理・科学を軽んじたからだと思う。エリート軍人は、戦術・戦闘を中心に学んだ。戦争の勝利で国が富んだ過去があるので戦って勝つことを中心に学んだ。軍部もそれを要求した。陸軍士官学校・陸軍大学を卒業し、更に一期50人のうち10%の5人が恩賜のエリート軍人で、それゆえ選良意識が独断・秘密・隠蔽の組織になっていった。それが子供でも判りそうなのに日米戦争へ導いて結果、日本を奈落の底へ落した。

負け戦がない近代史とは、相手が弱小、局地戦であることの実態を自覚しなかったことになる。つまりある意味、軍事的には運が良かった。明治維新を経験した軍人・政治家は戦略・政略を常に考えていた。こうした人たちが悪いと云えば悪いが、その後の軍人は、指揮官としての戦術・戦闘のみを教え込まれ戦略・政略には目をつむった。欧米の優れた工業製品に思考が及ばず、物理的な武器・戦闘機・戦車などはなおざりになった。極東の島国・日本は「富国強兵」は目標で、実態は「貧国弱兵」、戦闘最前線の戦術のみ求められたから、本当は行軍の武器・糧秣がいちばん重要なのに、これらの専門家を教育・訓練することを怠った。第一次大戦の欧州は日本から遠かったというしかない。「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥のうち」は、輜重・兵站は軽んじていた証拠。白兵の歩兵が中心だった。なにしろ日露戦争当時の「三八式歩兵銃+銃剣+手榴弾」で世界を相手に戦争をした。負けるに決まっている。

その補給や情報無視の作戦は、様々な「昭和史」の本で指摘されている。
≪牟田口は過敏な神経の持ち主で、日頃から持ち歩いている鞭で自分の幕僚さえ叩くような男だった。そのためもあって、部下は意見を述べることを控えていたと言われる。したがって、補給手段の強化といった進言も、一人として言い出す者がいなかった。そしてそれが、数万人という餓死者につながったのである。陸軍の場合、常に「兵隊がいて、小銃と弾さえあれば戦争はできる」と考えていたようである。そしてまた、歩兵の突撃によってすべての敵を圧倒できると信じていた。この考え方は、太平洋戦争でもまったく変わっていなかった。日清、日露戦争の勝利さえ、冷静に分析すればそのすべてが薄氷の上を歩くようなものであった事実が理解できたはずである。倣り高ぶった陸軍首脳は、それに気づかず前線の兵士に無用な犠牲を強いていた≫
(『日本軍小失敗の研究』)

日本の軍隊が日露戦争以来の「白兵突撃主義」だったとは理解できるが「エリート軍人が、それに気づかなかった」との指摘は軍人には優しすぎる。「知っていて改善することをしなかった」が本当だろう。作戦という戦術・戦闘は軍人の基本だが、その重要な物理的な要素「戦争に勝つ装備」には関心が無いというより優秀な軍人が就任しない仕組みでもあった。軍人は最前線の兵隊を人間として扱うのでなく、戦術上、いくらでも補充できるモノとしての存在だったようだ。でなければ「神風特攻隊」などの発想は生まれない。

以下は一人の兵隊が背負い、携帯する装備。
≪費用の問題も当然あるにはあったのだろうが、日本陸軍には、強力な戦車、装甲車を揃えての機甲戦術、あるいは自動貨車(トラック)を大量に使用した機動戦術を採用しようとした努力も、また本格的に研究しようとした痕跡も見られなかった」「日中戦争に駆り出された歩兵は、40ないし60kgの荷物を肩に、連日行軍しなくてはならない。これは召集されたばかりの二等兵も同じであった。昭和10年頃の日本の成人男性の体格の平均は、身長160センチ、体重55 kgといったところだ。本当にこれだけの重量の装備を持ち歩いたのかという疑問も生ずる≫
(『続・日本軍小失敗の研究』)。

◇三八式歩兵銃3・9 kg
◇銃弾120発、銃剣1挺、手榴弾2発、擲(てき)弾筒・小型の迫撃砲)の砲弾5発、合計約10kg
◇鉄帽(鉄かぶと)、皮製の剣のさや、銃弾入れ2個、兵器の手入れ用具一式、小型シャベル、ガスマ スク、合計約10 kg
◇食糧、米7日分6kg、乾パン、缶詰、味噌、醤油、合計約8kg
◇衣類の予備、地下たび、水筒、飯食、携帯テント、洗面具、筆記用具、これを入れる雑嚢(リュックサック)合計8kg。これだけで約40 kgである。夏ならこの程度で済みそうだが、冬ともなれば、毛布2枚、厚手のコート、携行燃料なども持っていかなくてはならない。加えて二等兵は、銑弾の予備(約60発)、擲弾筒の砲弾の予備(5発、1発の重さは800グラム)を持たせられたのである≫
(『続・日本軍小失敗の研究』)

これが平地での基本である。インパール作戦の司令部では、インパールまでを平地でしか計算しなかった。これでは戦争に行くのではなく自殺する準備と思われても仕方ない。日本軍が局地的にそれまで勝利したのは装備が手薄な中国大陸でのことだ。NHKの「インパール作戦」の映像を見ると物資を運ぶ水牛はやせ細っている。これはビルマの水田耕作用の牛で川幅600mのチンドウィン川、3000m級のアラカン山脈には通用しなかった。目的地に着くまでに殆んど死んだ。むろん兵士も同様だった。

筆者は、定年後に山形県の山寺・立石寺を登った。900段強の石段がある。途中の休憩所・山頂に飲み物を売っている。平地では100円のジュース類が200円を超えていたように思う。屈強な若者が、たくさんの飲料水を背負子に載せて前屈みで上るのを見た。70kgの体重なら同量の物を運んだのか。今、こんなことを思い出している。

戦前の陸軍兵士がすべて屈強だとしても自分と同量の物資を背負い、関東から岐阜を経て北陸金沢の距離を行進した。それも川幅600mの河を渡り、2〜3000mの山を20日間で行く。しかも戦闘も交える。撤退で90%の兵士が亡くなったが、往路でもかなりの犠牲者が出たのではないか。それにしても後年、素人が思うには、インド北部に行って仮にイギリス軍を駆逐したとして、何の目的だったのか。20日間の食糧しか“持参”しないのに、そこから一体何をしようとしたのか。インドはイギリスの植民地で広大である。「インパール作戦」が、武器も貧弱、食料も無、目的の無い戦争を象徴している作戦だったことは間違いない。

NHKの「インパール作戦」の映像を静止画にしたもの。当時はアナログ。

◇参考書
『日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫
『続・日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫

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