2016/11/17  17:12

インパール作戦 小論08U  昭和史
佐藤幸徳U
映画監督で作家の高木俊朗氏は、陸軍映画報道班員として従軍している。戦後はフリーの記録映画の監督になった。『陸軍特別攻撃隊』(菊池寛賞受賞)と共に「インパール作戦」4部作では、この悲惨な戦争を知らしめた先駆者的存在。このうち第31師団(通称・烈)を取り上げた『抗命』では、師団長・佐藤幸徳を中心に著わした。それも昭和41年発行だから以後の様々な著作は、これに影響されている。NHKの「太平洋戦争日本の敗因4」もここから多く引用されている。この作戦の云わば古典的名著で知ったことが多い。驚いたことに牟田口廉也が存命中にNHKで「インパール作戦」の放送があったらしい。そこでは牟田口は言い訳ばかりだった。国立国会図書館に本人の生の声の録音も残されているという。放送は昭和40年07月のことだからVTRは無いだろう。それを見た生き残りの兵士から大いなる反論が始まったようだ。この『抗命』の著書は、翌41年だった。

総軍という「南方軍」はシンガポールにあった。司令官は、寺内寿一(陸士11期)65歳で、父親が寺内正毅という大正時代の総理大臣、典型的な軍人官僚だろう。植民地だったイギリスを簡単に篭絡したにせよ、一年半経過したビルマはイギリス軍が物理的に盛り返してきた。後述するが、それは空挺団で飛行機による物資の補給と現地のインド軍の攻勢だった。それを察知して「ビルマ方面軍」隷下に15軍が組織された。陸軍の人事と予算は陸軍省、戦術と作戦は「参謀本部」だった。

これを決めたのが陸軍省の次官・富永恭次(陸士25期)、総理大臣にして陸軍大臣の東條英機(陸士17期)のイエスマンだった。富永の詳説は避けるが昭和20年の“敵前逃亡”はよく知られている。ビルマ方面軍と15軍の人事の理由はよく解らない。陸軍の定期異動は、現場に関係ないらしい。だからいわゆる「ウ号作戦」のインパール作戦を知るのは牟田口廉也(陸士22期)だけになった。ここが悲劇の発端になった。

二・二六事件の原因の陸軍の抗争は、もうそこで牟田口と佐藤幸徳(陸士25期)が対立していた。盧溝橋事件とシンガポール攻略は牟田口と上官の河辺正三(陸士19期)が関わっていた。15師団の山内正文(陸士25期)は優秀な軍人でアメリカをよく知るが、陸軍幼年学校は出て居らず傍流、最後まで作戦には反対するが、病身で更迭される。33師団の柳田元三(陸士26期)は俄か仕立ての師団で根本的にこの作戦は反対。これも作戦撤退中の昭和19年05月後半に罷免される。

輜重の小畑信良(陸士30期)は牟田口に罷免され、南方軍の稲田正純(陸士29期)は、東條英機に遠ざけられ、佐藤と陸士で先輩・後輩だったビルマ方面軍参謀長の中(なか)永太郎(陸士26期)、やたらに配下を怒鳴りつけるビルマ方面軍参謀の片倉衷(陸士31期)は、最後の兵棋演習では、作戦の賛成に回った。何が何でも作戦を強行する牟田口廉也の勢いを止められず、寺内寿一、参謀総長・杉山元(陸士12期)、総理大臣・東條英機に逆らえない。作戦の内容・物理的な弾薬や糧秣は無視された。「ビルマのジャングルは青々としている、食料に困るなどは考えられない」が牟田口の見解だった。事実は多くが餓死した。

昭和19年05月中旬、第五野戦輸送司令官・高田清秀(生・陸士、調査中)少将が来た。糧食・弾薬補給は不可能と告げた。◇小型自動車は不足、雨季で道路事情が悪化。◇15軍の命令はでたらめ。◇車は兵力輸送に使い無い。無理を承知でも命令を出せばそれで実行しない責任を現場に押し付けられる。(『抗命 インパールU』P167)

現場を視察した秦彦三郎(陸士24期)参謀次長は、作戦成功見込み無しを大本営に報告した。総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼務した東條英機は怒るのみで作戦続行を命じた。この命令で撤退が一ヶ月遅れた。ビルマのジャングルで6万人が餓死・病死したが、この東條の“悪あがき”が無ければ命を落とさずに済んだ兵士も多かったに相違ない。

陸軍の組織のことしか解らない東條が作戦を命令する参謀総長をも兼ねた。戦局悪化のリアリズムを承知しないのだから話にならない。昭和19年07月に東條内閣は崩壊するが、フィリピン・サイパン島の全滅が原因だった。ビルマの惨状は、報告されても理解できなかったのが真相だ。

中央が牟田口、右端が佐藤幸徳。左端は柳田元三。

◇参考書
『インパール作戦』磯部卓男 丸ノ内出版
『昭和史の軍人たち』秦郁彦 文春文藝ライブラリー

クリックすると元のサイズで表示します
0


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ