2016/11/18  9:47

インパール作戦 小論09  昭和史
白骨街道
≪決死の突撃も山頂を奪うことは出来なかった。三大隊の突撃部隊は悉く敵陣内に斃れ、九中隊長奈良中尉、十中隊長長浜中尉以下が全員戦死した。─四月二十三日、奈良中尉指揮の九中隊と、長浜中尉指揮の十中隊全員が、死を決して日没後行動を開始しました。敵の意表を衝くため、イヌの高地側面の断崖にはしごをかけてよじ登り、一挙に突撃を敢行すべく、中隊長を先頭に次から次へと崖を登ったのでした。しかし僅かなはしごで二個中隊全員が登り切るには、予定よりかなり長い時間がかかりました。全員登り切ったころには夜がしらじらと明けていたのです。早くも敵の発見するところとなり、十字砲火を浴び、戦友はバタバタと倒れていきました。奈良、長浜両中隊長は、軍刀をかざして鬼神の如く敵陣に斬り込み、壮烈な戦死を遂げられたのです。南中隊員も中隊長に遅れじと突撃し、敵の砲火の中に全員戦死しました。
 戦後、英軍の資料を見ると、コヒマの戦闘で一番苦しかったのはイヌの高地の防衛戦闘であり、その中でも三大隊の戦った弁務官宿舎附近の戦闘を、最大の激戦としております。これも、今は亡き勇敢なる戦友の武勲が、そうさせたのにほかならないのです。イヌ高地の総攻撃に失敗して、五十八連隊の戦力は大きく失われた。中隊長以下全員が死傷したのが、四個中隊もあった。その他の中隊でも、中隊長以下、数名または十数名になっていた。≫(『抗命』P156)

≪4月に入ると、食糧は輸送部隊のところにさえ来なくなった。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えていった。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになった。大砲の重い弾を一人2発を背負って、山道を前線まで歩いていくのである。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。山道での担送はつらい仕事だった。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった≫(『太平洋戦争 日本の敗因4』P174)

≪敗走は悲惨をきわめた。「靖国街道」と呼ばれた道端に息もたえだえに横たわる負傷兵の眼や鼻や口にはウジ虫がうごめいていた。のびた髪の毛に集まった裏白なウジ虫で白髪のようになった兵士が、木の枝に妻子の写真をかけて、それをおがむように息絶えていた。水を飲もうと沼地に首をつっこんだ兵士がずらりと行列のまま白骨となり、頭髪だけが水草のように泥水にただよっている光景や、ばっくりあいた腿の傷に指をいれてウジをほじくりだして食う兵士、泥に埋まったまま「兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん」と呼びかける兵士の姿がそこにみられた≫(『日本の歴史25』P353)

一点目の引用は、31師団、58連隊の激闘の一部だ。コヒマ高地、いわゆる三叉路高地での戦闘、ひとことで云えばこれは肉弾攻撃で玉砕した。04月18日、鹵獲の燃料が大爆発して作戦は頓挫した。二点目の引用は、インパールまでの山道の行進の実態。三点目は撤退の兵士の阿鼻叫喚の事実。ジャングルの雨季の蛆は、一人の兵士を三日で食い尽くした。

31師団の23000人の兵士は大河のチンドウィン川を渡り、剣呑なアラカン山脈を越えて来た道を戻った。昭和19年05月には、もう牛や馬も死に絶えている。多くの糧秣・武器は自分で運んだ。保存していた糧秣は奪われ補給は無し、鹵獲も底を付いた。コヒマからフミネまではジャングルの中の100q、90%の兵隊が死に“白骨街道”となった。

15軍司令部は、ビルマの軽井沢といわれるメイミョウにあった。先述したがメイミョウは、日本で云えば仙台、インパールは岐阜、コヒマは金沢。昭和19年一月元日、メイミョウの日本料亭の芸者が呼ばれ15軍司令部は、ドンチャン騒ぎになった。軍の車を使ってメイミョウの街を行進した。牟田口を始め軍の幕僚は、作戦が許可された喜びに酔いしれた。半年後、悲惨な結末になると思う軍人は居たのかどうか。居たにしても誰も自分に責任はないと思っていた。

画像は「イヌ高地」の惨状。緑豊かな地形だった。多くの日本兵は戦車でひき殺され埋められた。

『日本の歴史25』林 茂 中央公論社
『ドキュメント太平洋戦争』亀井 宏 講談社文庫

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