2016/11/20  10:14

インパール作戦 小論10U 終  昭和史
事実と情実02
インパール作戦で100人中91人が死んだ。数少ない生き残りの兵士は、敵は英軍でなく@に司令官(牟田口廉也)Aにマラリアと蚊Bに飢餓、Cにやっと英国・インド軍だったと言う。

先年、ロンドンのマクドナルド・昭子氏の質問のなかで、あれほど無謀な作戦なのに、どうして第31師団を始め、第一線の兵士は頑張れたのか?は、少数意見だが筆者の回答がある。陸軍の基本は中隊だ。中隊長は陸軍大尉クラス、口も聞けない上官ではない。100人ならば老若男女合わせて一つの共同体“ムラ”なのではないか。3分の2は、女・子供・老人だ。成人男子は、その村を維持する構成員だ。同じ釜の飯を食い、軍隊で苦楽を共にし、生死を共にすれば「良い悪い」は別にして紐帯が発生するに違いない。軍隊の人間関係はここが原点だろう。まして連隊は各地方の成人男子を基礎にしている。稲作農耕民族の村落共同体は日本人のエネルギーの源泉だ。31師団58連隊は新潟県高田出身が多い。

日米開戦前の「項目別検討会議」では「日本は勝てない」という結論が出ていた。霞が関の官僚の摸擬内閣が昭和16年春、出した結論はアメリカには「始めは勝利する作戦もあるが、長期戦になれば必ず負ける」という結論が出ていた。まさにその通りになった。猪瀬直樹氏が『昭和16年の敗戦』で詳説している。

開戦責任は、三すくみだった。日中戦争が日米戦争になるので海軍の出番である。ところが海軍は「アメリカとの戦争は勝てない」と解っていた。陸軍も非公式に「アメリカと戦争して勝てない」と思っていた。陸軍の高官・武藤章陸軍中将は、海軍に非公式に「海軍は勝てない」と言ってくれ、と頼み、海軍・岡敬純(たかずみ)海軍少将は「正式には言えない」「戦争は総理大臣が決めること」と突っぱねた。近衛文麿総理は「陸軍が中国大陸から少しでも撤兵してくれれば」と言い、陸軍大臣の東條英機は「それは出来ない」と、開戦責任すら誰もが「言い出しっぺ」になりたくはなかった。それが始まってしまったのは情報・外交を無視した内部事情そのもので昭和天皇の思惑などより内側の軍人官僚の論理がすべてに優先した。

≪いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである≫(『一下級将校の見た帝国陸軍』P303)
山本の指摘は正鵠を射ている。上官の命令は「天皇の命令で絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのである。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。

以下は作戦終了間際の牟田口廉也の訓示
『日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。泣き事を言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ……」

この人は狂人ではなかったのか。人間が手足をもがれたら噛みつくことはできない。当時30代と若い15軍参謀の藤原岩市に牟田口廉也は「これだけ多くの部下を殺し、武器を失ったことは司令官として腹を切ってお詫びしなければならない。貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」と言った。藤原参謀は書類整理の手を休めず応えた。

昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります」(『抗命』P278)“切腹”を止めてくれると思った参謀は止めてくれなかった。

牟田口廉也は昭和20年、東京に戻り陸軍大学の校長になった。上官の河辺正三は大将になった。撤退を決めた佐藤幸徳は、「師団長発狂す」と精神障害者にさせられ予備役になった。そうしないと作戦失敗は上部に及ぶ。佐藤が言った「バカの4乗」は責任を問われる。山内正文は現地で病死した。柳田元三は関東軍に転出されてソ連に抑留され昭和27年現地で病死した。

不確かな情報だが、牟田口廉也を暗殺する計画もあったらしい。だが牟田口は昭和41年まで生きた。

山形県庄内町、乗慶寺、佐藤幸徳将軍追慕の碑 阿部賢一氏提供

◇参考書
『一下級将校の見た帝国陸軍』山本七平 文春文庫
『太平洋戦争がよくわかる本』太平洋戦争研究会」PHP文庫

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