2017/2/8  23:30

三橋美智也 雑感02  身辺世相
三橋美智也という歌手が大ブレイクしたのは昭和31年頃だったと思う。筆者が上京して中学校に入学したのは昭和32年、丁度この頃から10年間が三橋の全盛期だった。ほどなく御三家という橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦など若手の台頭となり、以後、昭和40年代には、グループサウンズの勃興となって演歌は衰退していく。

6年半前に少しくその思い出を記述した。三橋の哀愁のある天性の美声は多くの日本人が魅了されたが、晩年はやはり悲惨だったと言っていい。その死に様は自業自得というしかないが、美声と同じくその東北人の天性の人の良さがつけ込まれたように思う。名義貸ししたホテルは倒産して借財を背負った。

再度記述するのは、その学歴のこだわりで意気を感じるからである。11歳で北海道の民謡コンクールに優勝しても多分それだけの事だっただろう。中学卒業後、三味線と共に旅回りの民謡歌手だったらしい。一念発起して三味線一本を持ち、19歳で上京、当初は喜劇役者の榎本健一を訪ねたらしい。ここで紹介されたのか横浜の綱島温泉のボイラーマンとなり、客に民謡も教えることになった。経営者に明大中野高校定時制通学(今は定時制は廃止)を許され21歳で入学、24歳で卒業している。

民謡教室の弟子が「NHKのど自慢」に優勝。キングレコードで録音ということになったが、この弟子があがってしまい、録音にならなかった。三味線伴奏の付き人だった三橋が歌ってみせ、キングではこの伴奏者の方がいいと契約に及んだ。歌手デビューしても3年間は売れなかった。「おんな船頭唄」のヒットで人気に火が着いた。東北出身で上京してきた中卒者などに圧倒的支持があったのだろう。

高校など無事に進学できた者には、売れっ子になる前の三橋の学歴のこだわりは理解できないだろう。筆者など定時制高校中退で30歳で一念発起、文部省の大検にチャレンジして合格したのは32歳。玉川大学の通信教育で小学校教職課程に学んだ(年齢的に無理だったが)。だから21歳で高校入学、同級生に「おとっつぁん」と云われても恥じない三橋の気持ちは忖度できるし大いに肯う。

前回、高橋掬太郎の“七五調”の詩と哀調を帯びる細川潤一の曲に印象が残ると記述した。今回は東北出の人間に思い出深いものを選んだ。作曲者の林伊佐緒も中野忠晴も元は歌手である。

◇リンゴ村から 昭和31年05月 矢野亮・林伊佐緒
◇母恋吹雪 昭和31年12月 矢野亮・林伊佐緒
◇リンゴ花咲く故郷へ 昭和32年07月 矢野亮・林伊佐緒
◇赤い夕陽の故郷 昭和33年11月 横井弘・中野忠晴
◇麦ふみ坊主 昭和34年12月 横井弘・中野忠晴
◇達者でナ 昭和35年10月 横井弘・中野忠晴

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