2020/3/11  21:40

新書乱読07G  読書
二・二六事件 皇道派と統制派
02月26日、もう新聞もテレビも報道しない「二・二六事件」を思い出した。だが“新書乱読”の範囲内に限定しても事件の首謀者、犠牲者は解るが、そこに至る近代の軍部の動きは複雑怪奇で難解。後世の者が安易に軍人は昔も今も「国民の生命安全」を護る為のものという考えは、どうやら単純で甘い。詳しくは松本清張の「昭和史発掘」が良い。これは単なる推理作家の仕事ではなく事件の全容は昭和39年から8年間、週刊文春に掲載された。まだ関係者の多くが存命の時代で史料の理解と構成と表現は多くの近現代史家を唸らせた。

聊か隘路に迷い込んだ気もするが、浅学菲才を自認しつつそこまでに至る軍人の対立を理解したい。二・二六事件を起こした元凶は帝国陸軍内部の軍人の派閥抗争。近代日本は昔の長州・薩摩の下級武士が端緒となって開かれたことは義務教育の「歴史」で習うこと。二度組閣した山県有朋が陸軍の創設者。つまり明治時代、大正時代は長州(山口県)、薩摩(鹿児島県)の出身者が陸軍大臣・海軍大臣・総理大臣の地位を恣にした。就任年数を先頃、現在の安倍晋三が更新したが、それまでは長州の桂太郎だった。伊藤博文以下、二・二六事件までは長州5人、薩摩は3人が首相になった。

唐突だが太平洋戦争の“真の責任者”は265年に亘って君臨した徳川幕府ではないのか。江戸時代に江戸より遙かに遠い長州・薩摩に押しやられた勢力が勇躍近代化の先頭に立った。近代への政治体制が完遂するまで、派閥が自然発生して日本の方向を維持するのには仕方のないことだった気もする。これを打破しようとしたのが、近代史に必ず出てくる「バーデンバーデンの密約」。南ドイツの保養地に欧州駐在武官経験者が集まって密議を凝らした。いわゆる「薩長閥」を打破して近代的な軍事組織に改革することだった、それが大正10年(1921)のこと。

日本陸軍が産んだ秀才といわれた永田鉄山(1884・1生)は陸士16期。因みに陸軍軍人は「陸軍士官学校」の卒業年次が着いて回る。この永田のように早生まれの誤差はあるが、陸士16期ならば必ず明治16年の年号と一致していた。密約の当事者は、永田がスイス公使館付駐在武官。ロシア公使館付武官の小畑敏四郎、参謀本部北京駐在員の岡村寧次。順にドイツ語、ロシア語、中国語に堪能だった筈。永田は信州、小畑は土佐、岡村は幕臣で東京出身。薩長閥でなければ出世も望めない程の当時の軍閥だった。

昭和時代になるとこの3人が中心になって若手軍人の「一夕会」が出来る。だがこの改革派の永田と小畑さえも相互の戦争観が対立して分裂する。因みに昭和16年、総理大臣になる東條英機などは、その頃いわゆる“ペーペー”の下っ端だった。永田は博学で優秀な軍人、国家が総力を結集する戦争観で「統制派」と呼ばれ、小畑は「皇道派」という天皇中心主義の思想を第一義とする派閥に増長してゆく。

両派の陸軍の人事は民間人の右翼など入り混じって二・二六事件の勃発する昭和11年までは、聊かの興味を持つ者を遙かに超える人物と行動と思想が入り混じり複雑な抗争となる。A級戦犯で100歳まで生きた企画院総裁の鈴木貞一は「永田ありせばアメリカと戦争などはしなかった」と戦後悔やんだ。永田は亡き者にされ、小畑・岡村は予備役に追いやられ陸軍中央から去る。この間の軍閥と事件は以下の著書に詳しい。

◇『昭和史発掘』、松本清張 文春文庫 昭和54年
◇『軍国日本の興亡』猪木正道 中公新書 1995年
◇『日本の軍閥』高橋正衛 講談社学術文庫 2003年
◇『昭和の歴史3 天皇の軍隊』大江志乃夫 1988年

肝腎の「統制派」「皇道派」の内部抗争はなにゆえなのか、何が真の理由か、浅学には解らない。その陸軍は、根本のところで帝国海軍とも対立していた。戦争は国と国の戦い。敵そのものはロシア・中国ではなかったのか。因みにこの頃(1935前後)はアメリカとは対立してはいなかった。

行きたくもない戦争に駆り出されて戦病死した遺族には、その対立の感情論は理解したい。ともあれこの内部抗争が、昭和10年、皇道派の相沢三郎の「永田鉄山斬殺事件」を引き起こし、永田に率いられていた統制派は復讐心旺盛で、皇道派の若手将校を二・二六二事件に導いて?自滅させた。更にこの統制派が政治家を凌駕して大東亜・太平洋戦争という勝つことのない戦争へ日本を壟断、国民を道連れにしたことになる。

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