2020/4/4  22:53

ギアチェンジ2  身辺世相
前々回、月末の日常をギアチェンジ、中途半端な侭の自分のホームページを改変(リニューアル)することを仰々しく宣言。筆者本人の性格が中途半端なのを反映、頁の内容まで中途半端・未完成は良くないことは判っていた。平成10年代後半、勃興したウェブのページは宛ら“自分史”の百花繚乱だった。

愛知県春日井市の長谷川氏などは、10年毎の家族の記念画像と共に長谷川家の歴史を作成して濃密。個人でありながら日本全国の個人のHPをリンク・網羅した。京都市のパナソニック主宰の老人向け「スローネット」に匹敵していた。だがその「リンク一覧」も共に数年前に消滅。個人のホームページが下火になったのは、スマホのSNSの発展だ。反比例の様相宛らだが下火になったのは、やはりパソコンの物理的作業の問題。HP制作者の高齢化に尽きる。

筆者の場合「志村けん」の病状・経過に鑑みてできるだけ早く「無明庵 天邪鬼の探索考 戦争の昭和史」を完成させること。同時に平成24年以降の投稿歌のページを追加すること。ホームページビルダーで“縦組み仕様”は技術と時間が掛かるので横組み仕様にすることにした。

一兵士の二年間を、史料としての多くの著作の読解と、自分が所持する少ない資料のみで理解。想像される戦争最前線に言及することをしなくては父母の世代には失礼だ。このページ改変は“お涙頂戴”のページではない。因みに母親の小学校時代の同級生名簿の男性の30%は戦死。文才の無い筆者が今、昭和史の一部分を著しても学者・専門家の指摘を擦(なぞ)るだけではあるものの……。

筆者の父親は、平塚市北部にある今の「日産車体」の前身の飛行機を作る会社のサラリーマン?だった。昭和18年の秋口、今で言えば“根こそぎ動員”の按配で徴兵された。職業軍人ではないのに太平洋戦争末期に“付け焼刃”の訓練で中国大陸に守備兵として送られた。終戦後に“野垂れ死に”の事実は“哀れなりけり”だ。その遺児だからこそ何らかの意思表示の義務を持って不遜ではない筈。

情報が限定されていたとは云え、よく考えれば“連合国米欧を相手に勝てない戦争”なのに、輪をかけて、装備と訓練の貧弱のままのいわばヤケクソで、日本そのものさえも玉砕・特攻を強いられた。最前線の犠牲者が多かったことは当然の理。多くの戦死者を知っていながら陸軍の高級将校は戦争続行を譲らなかった。その証拠に終戦間際の昭和20年がいちばん死者が多い。素人でもここを検証しなければ「戦争の昭和史」は無意味だ。

添付は、冬雷2020年4月号「冬雷集」のカット画像。山梨県山中湖村三国峠からの富士山。5月下旬につき雪は解けていた。画像の上でクリックすると拡大します。

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