2011/2/25  13:47

活版印刷今昔10  印刷
同じ短歌会の友人から昨年、新聞の切抜きを頂いた。毎日新聞・日曜の「ものがたり」という欄に「活版印刷」のことが書かれていた(平成22年05月)。その友人は、筆者より一回り?上の世代のご婦人である。先ごろ未亡人となられ且つ長年経営されていた鉄工所を閉鎖された。その一連の歌には世相・感懐・達観が詠まれていて筆者より数段上の実力者である。歌歴も長い。店じまいは活版印刷だけとは限らないということなのか。これはこれで「物造り日本」の経済・政治問題で由々しき大事である。

ご婦人は中央区に住んでおられる。昔、「」の字型に開いた隅田川の勝鬨橋はその役目を終えている。すぐ上流の橋は「永代橋」だった。昭和39年「東京オリンピック」に合わせて「佃大橋」が完成した。月島の得意先への配達は勝鬨橋・永代橋共に遠く、会社のある日本橋通三丁目からは、聖路加病院の横から乗れる「佃の渡し」が便利だった。人・自転車・バイクもOKで小型フェリーのような存在だった。この渡しは昭和38年に閉鎖となった。筆者が18歳のときである。東銀座に「中村活字」があり、新富町には「築地活版」という活字メーカーがあって活字も購入に行った。あるとき偶然に築地本願寺で「小津安二郎」の葬儀に出くわした。配達の途中、若き岩下志麻・倍賞千恵子を眼の前にして興奮したものだ。

 大橋の完成までは配達へ自転車ごと乗りし「佃の渡し」

その頃、中小の印刷会社の印刷物は圧倒的に事務用伝票だった。納品書控・納品書・請求書・領収書などの3枚複写・4枚複写の伝票は裏にカーボンを印刷することが多く、カーボン専門の印刷会社も多かった。その後、複写専用の用紙も開発され、更に通しナンバーをも印刷する活字の高さの「ナンバリング」も普及し活版印刷の一時代を築いた。だが今は完璧にデジタルコンピュータ印刷にとって代わられた。

新聞記事の「活版印刷」は世田谷区の「オール○○○工房」。主流はグラフィックデザイン。廃業する区内の活版印刷の機材一式を譲り受けたらしい。活版を知らない若者が文選・植字・プラテン印刷と覚えるまで時間がかかっただろうと思う。しかしこういう若者がいることは心強い。

今でも名刺・二つ折りカード・単カードなどは活版の「正楷書体」で印刷したら印刷物としてかなりの重々しさと存在感がある。筆者が死んだら、あののっぺりとしたコンピュータの「会葬御礼」だけは願い下げにしてもらいたいものだ。

画像は新聞記事を無断拝借した。

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