2011/8/11  22:32

日独伊三国同盟  昭和史
日独伊三国同盟とは、1940年(昭和15年)09月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された同盟関係。いわゆる第二次世界大戦時の枢軸国と呼ばれた。1937年(昭和12年)の「日独伊防共協定」を具体化し、アジアにおける日本の後の「大東亜」という地位とヨーロッパの独伊の覇権の相互確認で、他国から攻撃されたら相互に援助すると取り決めもなされた。

ナチス率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカの対日感情も悪化することに懸念はなかったのか、今となっては何とでも言えるが、軍部の主流は、国力はそっちのけの帝国主義的発想で、何としても中国本土や東南アジアでは、一等国の地位を手放す気持ちはなかった。昭和06年の「満州国成立」は、日本の為政者、軍部がソ連の共産主義革命に怯えたというある種の理由は存在していたのは確かだが…。ナチス・ドイツは、日本の思惑などどうでもよく、ヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する意味合いが濃かった。三国はイギリス・スペインなど欧州の主流に比べると植民地獲得が少なく、それぞれの国情が一致したに過ぎない。よく考えれば、日本が遠く離れたドイツやイタリアと軍事同盟を組んでも得するものは無かった。

締結以前、昭和14年には、英米協調派が少なからず居た海軍には反対が多く、米内光政(海軍大将・総理も経験)・山本五十六(海軍中将)、井上成美(海軍少将)のトリオは、実利のない条約には猛反対で「条約推進派」を怒らせた。だが昭和14年・1939年、ドイツのポーランド進撃に始まる大勝利が、日本の陸軍はおろか海軍、外務省、国民までも熱狂させた。前年の昭和13年にはナチス親衛隊の“ヒトラーユーゲント”が来日。張り切ったのが朝日新聞、日比谷公会堂で「歓迎講演会」など文部省と共催して大いに盛り上げた。この新聞の罪は重い。

日本は、既に日中戦争で莫大な戦費を費やしており、蒋介石政権を支援するアメリカと対立しつつあった。「日独伊防共協定」を発展させ、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地の支配を事前にドイツに了解させる意図もあった。ドイツが完全に勝利することを疑わなかったことになる。

フリー百科事典「ウィキペディア」参照。

画像は首相官邸の祝賀会。右からオット・ドイツ大使、インデルリ・イタリア大使、外務大臣・松岡洋右、企画院総裁・星野直樹、陸軍大臣・東條英機。何故だか総理大臣・近衛文麿が居ない。

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2011/8/12  21:11

投稿者:湘南の暇人
詳説は避けますが、ヨーロッパでは第二次世界大戦より第一次世界大戦(日本の大正時代)の惨禍のほうが半端ではないのです。多くの若者がフランスでもドイツでも数百万人戦死したそうです。多額の賠償金を課されたドイツが30年くらいして爆発したのが真相のようです。

大日本帝国の軍人も、エリート馬鹿で、戦争しか知らないのです。日清・日露戦争でおおいに賠償金をせしめたのが「富国」としか考えられなかったようです。敗戦の決断が遅れたのは、賠償金と軍人自らの責任回避です。

東條英機などその典型で、暮らしは清貧、色恋なし、世界情勢・条約など興味がなく、ひたすら陸軍のことのみだったようです。現今の高級官僚もあまり変わりません。

http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/homepage/

2011/8/12  1:36

投稿者:なりひら
湘南の暇人さん
 ポーランドへの進攻⇒侵略、日本軍の朝鮮半島への進攻⇒侵略。後でいかなる理屈づけをしても、他国への一方的な侵攻を正当化できません。あの頃の軍部には、こうした得手勝手な理屈しかなかったのでしょうか?
 大震災後、世界から称賛された、あの我慢強く、他者への思いやりに富んだ民が。軍部は別物だったのか?あるいは、一皮むけば傲慢で、利己主義の民なのか・・。

http://happy.ap.teacup.com/ibaraki-doji/

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