2011/8/21  21:45

日米開戦への道02-2  昭和史
近衛文麿という政治家

前回、近衛文麿の政治履歴を大づかみで叙述したが、今回は昭和史の書に著わされているエピソードを紹介して、その人となりを考察してみたい。近衛文麿とは、軟弱でいい加減な性格で総理大臣には相応しくない人、むりやり総理大臣を押し付けられて気の毒だった人、果ては「共産主義者だった」などという本まである。

現在「文藝春秋」で『昭和天皇』を連載中の福田和也氏は≪伊藤博文から小泉純一郎までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、そのあまりの無責任さがゆえに近衛に歴代総理の中での最低の評価点を与えている(『総理大臣の採点表』文藝春秋)フリー百科事典『ウィキペディア』 ≫とある。これは読んでいないからよく解らないが、昭和天皇を賛美する地慣らしでなければいいが、が筆者の感想。

◇『戦争と狂気の世紀に生きて』という文で評論家・村松剛氏は、戦前戦後、大蔵大臣を務めた賀屋興宣(かやおきのり)に近衛文麿とは、どんな人物か問うている。賀屋の返事は≪あのひとは自分がハンコを突くと責任が発生するということが、どうしても呑みこめなかったのですよ。何しろあの家は、平安朝いらい駆けったことがない≫村松氏も指摘するように、当時は公家出身者は「長袖族」と言って、急いで歩くことができない、転じて非常時は何も役に立たない、という認識があった。つまり文法的には可笑しいが「駆けった」ことがない、という指摘は、大蔵官僚の賀屋興宣にしては云い得て妙である。
『新潮45・昭和63年12月号・追悼昭和文化革命』P64

◇近衛文麿の人となりを著わすエピソードとして多くの昭和史に引用される件である。≪近衛公爵は私に向かって「いよいよ仏印の南部に兵を送ることになりました」と告げた。私は「もう船は出帆したんですか」と訊くと「ええ、一昨日出帆しました」という。「それではまだ向こうに着いていませんね。この際、船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させることは出来ませんか」「「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」との答えであった。「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戟争になります」と私がいうと、公は「そんなことになりますか」と、目を白黒させる。私は「きっと戦争になります。…」と言った≫英米を知悉する外交官・幣原の予言は的中する。松岡洋右も本能的に危険を察知していて期せずしてエリート外交官も野武士のような外交官も英米の本質を理解していたことになる。知らないのは政治家・軍人だった。ここも重要なポイントなのだが「英米可分論」という希望的観測が軍部を支配していた。思えば日本軍部は開戦から敗戦まで希望的観測のオンパレードだったと言っていい。
『外交五十年』幣原喜重郎 中公文庫 P209

◇近衛の古い友人、山本有三(作家)の晩年の手記の秘話である。近衛が昭和12年、最初の大命降下(総理大臣になれと云う天皇の命令)の頃、≪彼は、弟の秀麿といっしょに、軽井沢へ、自動車で行ったことがあります。その日は、あいにくの吹き降りだったので、中仙道では、行きちがう車もなく、歩いている人にも、ほとんど出会いませんでした。車は狭い街道を、どろ水をはねあげながら、本庄から高崎へ向かって走っていました。と、遠くに、黒い、何かが見えたと思っているうちに、道ばたに、車を避けていたおばあさんと、小さい女の子を、またたくまに、追い抜いてしまいました。近衛は、とっさに車をとめさせ、やがてバックを命じました。「あのおばあさんと子ども、どこまで行くのか、聞いてごらん」近衛がそういうと、運転手は不服そうに『あの、ばあさんにですか?』『とにかく、尋ねてみたまえ。』『車がよごれますがねえ。』『そんなことは、どうでもよい。』……ふたりは、かぶっていた雨よけのゴザをぬいで、車に乗りましたが、雨はすでに着物にまで滲みとおっていたようです。おばあさんは、くだくだしく礼も言わず、そのまま運転手の横に、娘といっしょに、腰をおろしました。この年寄りの動作は、飾りけがなくて、そこに自然の美しさを見たと、秀麿は言っています。もとより、おばあさんは、この車の主が、誰であるか知るはずがありません≫
このエピソードは近衛の性格と心情を如実に示す。自分が、華族出身の身分を疑問に思い「機会の平等」を言い、後年、共産主義者に見まがわれるような「分配の平等」を言った。この書は、近衛の私生活まで描ききっている。近衛秀麿とは異母弟で指揮者。
『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子 中公文庫 P161

◇保阪正康氏は3000人もの戦争関係者を取材している。昭和天皇が倒れた昭和63年秋、細川護貞に取材している。前回、記述したように、細川は近衛の秘書にして近衛は岳父。子・護煕は平成05年、総理大臣になる。保阪氏は肝腎なときの近衛の弱さを執拗に追及した結果が次のようなものだった。あまり話したくはなかったらしい。≪「あのころ、その昭和16年10月半ばのことになるわけだが、近衛さんはひどい“痔”に悩んでいたんだね。痛くて痛くて、たまらないらしく、医者に診てもらっても、すぐには痛さはとれなかった。それに耐えながら、執務をしていた。陛下のもとに上奏にいかれた帰りなどでは乗用車の座席に座っていることもできずに、前かがみになってね、痛さに耐えていた。お尻を少しだけ椅子に乗せるという状態でしたね≫痔疾の痛さは、なった者でないと解らない。筆者も経験済みである。

≪日米開戦か、外交交渉か、と東條英機につめよられながら、近衛は、痔の痛さに耐えながら、その不快さに人間味を丸だしにして、東條と衝突していた。近衛にすれば、肉体の痛みは、開戦をひたすら主張する東條の強硬論でさらに倍加したはずであった≫近衛は後継首相を決める重臣会議を欠席する。それすら責任回避・逃避と執られたらしい。≪岡義武の『近衛文麿』にも「近衛は病いを理由として欠席したが、この会議において木戸は後継首班として東條を推し、重臣多数はこれに賛成した」と書かれているに過ぎなかったのだ。「病いを理由として」というのは、…実は、痔であった、と私はわかったのである。…近衛の痔の痛さは言語に絶するものであったのだろう≫
『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』保阪正康 講談社文庫 P205

筆者は、近衛文麿は戦争責任者である、という立場はとらない。事実上、宮廷bQのむしろ担ぎやすい、自分たちの云う事よく訊いてくれる陸・海軍の策略だったと思う。近衛文麿に日米開戦へのポイントで決断できないのを大方の軍人は知っていたに違いない。最後に近衛文麿の歎きと遺書を紹介しておく。いずれも“『近衛文麿─「運命」の政治家』 岡義武 岩波新書”からの引用である。(この本は絶版になっているがネットでは古本が流通している。)

「戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」。また、「人間の一生は棺を蔽うてからでなければ、分らない。いや棺を蔽うて何十年も何百年も経つて後の歴史家が公正に判断してくれるだらう」。そして、「僕は運命の子だ。僕の周囲に今まで去来した数々のいろいろな分子、右といはず左といはずいろいろな人々が僕を取巻いたことが、否、取巻かれてゐたことが、今日の僕の運命を決定したのだ。これは僕の責任でもあり、悲しい現実であるのだ」P228

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論(いわゆるよろん)なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」P233

画像は昭和16年01月場所前の、双葉山・前田山の申し合い。

近衛文麿の画像すべてに云えることだが、その視線には常に、難問を押し付けられた「なぜ自分がという懐疑・不信の心情がほの見える。

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