2011/9/3  0:32

日米開戦への道03-2  昭和史
“統帥権”とは何か02 「統帥権干犯(かんぱん)問題」

昭和61年、1回45分間、12回に渡り「昭和への道」という放送がNHK教育TVであった。司馬遼太郎が、殆どメモも無しにテレビカメラの前での一人語りだった。録画したがVHSの走りで3倍モードだったので画像も音質も悪くまことに残念の極みである。これはNHKブックスで書として残っている。初回放送の言葉は強烈なものだった。

≪日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をボンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。≫

むろん「魔法の杖」は、“統帥権”にほかならない。だがこれも「統帥権の独立」「統帥権の行使」など、その法的根拠や歴史を語るだけで何冊もの本になる。ここでは統帥権が独り歩きする「統帥権干犯問題」を知ることによって軍部が政治を乗っ取っていく端緒となったことの概略を記したい。だが干犯問題があろうと無かろうと統帥権も統治権も天皇にあったことにある。「統帥権」は政府から独立していたため、総理大臣といえども直接介入できないことが、軍部の暴走の口実となった。そのことを軍人に知らしめたのが、政争に明け暮れる政治家そのものだった。

「日露戦争」のあと大正時代になると明治維新を成し遂げた元勲も表舞台から消え、いわゆる「大正デモクラシー」で原敬(はらたかし)内閣が成立する。大正時代末期には、高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、「第二次護憲運動」が始まる。大正14年、第24代内閣総理大臣・加藤高明内閣で「普通選挙法」が成立する。だが就任1年半で加藤が病死したことから暗雲が漂い始める。普通選挙法と抱き合わせで「治安維持法」が施行される。この時は大正15年・昭和元年である。昭和に入って三度も大命降下(天皇から組閣を命令される)のあった宇垣一成(うがきかずしげ)が陸軍大臣で行ったのはいわゆる「宇垣軍縮」という軍人の大量解雇だった。人件費を減らし兵器を近代化するのが本心だったようだ。日米開戦前の「アメリカ憎し」と同じで、世相は軍縮ムードだった。関東大震災にも見舞われて、日本という国の経済が下り坂だったからかも知れない。宇垣軍縮の恨みは、敗戦まで軍部に根強く付きまとう。

余談ながら決して余談とは云えないが、今から思えば極めて真っ当な総理大臣「原敬」「浜口雄幸」「犬養毅」「高橋是清」「斎藤実」の、その時の現職、或いは元職の総理大臣五人は、暗殺されて命を落とす。『日米開戦への道』の最後でこれを取り上げる。また宇垣一成も昭和10年、暗殺された永田鉄山も陸軍では、世界を見渡せる優れた軍人であり、今でも人気のある石原莞爾などよりまともな軍人だったと筆者は思う次第。

いわゆる「統帥権干犯問題」は第27代総理大臣・浜口雄幸(はまぐちおさち)のとき、昭和05年(1930)に起きる。第一次世界大戦後の国際的な軍縮ムードの中で行われた「ロンドン海軍軍縮条約」調印をめぐる政争である。このとき財部彪(たからべたけし)海軍大臣が出席して補助艦総トン数は、対英米比率70%での妥結調印の方向で政府の了承を受けるべく連絡する。03月27日、浜口首相はこれを受け、統帥権を持つ最高司令官たる昭和天皇に決裁・許可をもらった。ここでは長くなるので省くが海軍の「艦隊派」(世界との協調を重んじるのは「条約派」)は、海軍軍令部長などが拡大解釈し、兵力量の決定も内閣が関与すべきでないと主張した。浜口雄幸は立憲民政党総裁である。

昭和05年04月下旬に始まった帝国議会では、与党・浜口を野党が攻め立てた。立憲政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎だった。現在の民主党、元首相・鳩山由紀夫の祖父である。軍令部の反対意見を無視した条約調印は「統帥権の干犯である」と政府を攻撃。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込む。昭和天皇は、これを裁可して「ロンドン海軍軍縮条約」は批准した。だが天皇が裁可したのに11月14日、浜口雄幸は右翼の青年に東京駅で狙撃されて重傷、浜口内閣は翌年、昭和06年04月総辞職。浜口は08月に死亡。この頃の幣原喜重郎外相の協調外交は完全に行き詰まった。

戦後、総理大臣にまで成る鳩山一郎は統帥権というより対立する与党の総理をやっつける意味合いが濃かったようである。なぜなら昭和初期は世界大恐慌から連動する金融不安を招き、資源小国日本は、世界のブロック経済をまともに受け「昭和大恐慌」に陥った。都市部のわずかな人々を残し、東北では食べるものも事欠く事態となった。ところが財閥と政治家の贈収賄事件が多発。多くの国民が“清廉潔白”な軍人に評価が高まるのは自然だった。鳩山一郎の「統帥権干犯」追及は、軍人の台頭を招く一つの原因となり、結局自己矛盾に他ならなかったと思うのは、筆者だけか! 「満州事変」が勃発するのは翌・昭和06年である。

城山三郎『男子の本懐』は浜口雄幸、大蔵大臣・井上準之助がモデル。東京駅・中央口通路・10番線の真下あたりの円柱に「遭難碑」がある。筆者は、昭和が“魔法の森”に迷い込んだのは、このときからだと思う。ポイント・オブ・ノーリターンの高々10年前のことである。

◇参考書
『日本の歴史24・ファシズムへの道』 大内力 中央公論社
『太平洋戦争、七つの謎』 保阪正康 角川oneテーマ21

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2011/9/7  23:07

投稿者:湘南の暇人
他の項目で書くことにしていますが、昭和の20年間はとにかく貧しかったのです。国民の90パーセントは貧困で、70%は一次産業の農林魚業、その半分は小作人でした。「集団ヒステリー」は間違いないですが、そうした世相が“清廉潔白な”軍人を信頼したのだと思います。戦前、司馬遼太郎が学徒出陣するときに、すでに大阪外国大学在学だったことが、もうすでに恵まれていたとも云えるのです。
これも他で叙述しますが日本人は上下に関係なく、行動の規範・倫理は「ムラ社会」です。情報の枯渇が根本にあります。

http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/homepage/

2011/9/4  0:23

投稿者:なりひら
前記事を含めて、統帥権について勉強させていただきました。「魔法の森に迷い込んだ日本」ですか。ほとんどの国民が事実を知らされず、魔法をかけられて「集団ヒステリー」に陥ったんですね。怖い事実です。一見温厚に見える日本人には、実はそういう素養も眠っていることを、冷静に認識する必要があるでしょう。

http://happy.ap.teacup.com/ibaraki-doji/

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