2011/9/6  22:01

日米開戦への道03-3  昭和史
統帥権とは何か03 軍部大臣現役武官制

ここまで『日米開戦への道』のポイント・オブ・ノーリターンを昭和15年09月の「日独伊三国同盟」としているが、10回を予定しているのに遅々としている。その頃、すっかりアドルフ・ヒトラーに魅せられた駐独日本大使・大島浩、当時の陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・嶋田繁太郎参謀総長&軍令部長朝日&毎日新聞メディア、昭和天皇、そして何よりも内大臣・木戸幸一の順に叙述するつもりでいる。

「統帥権独立」の源流としては、明治時代末期、政党政治に移行する過程で政治家が「統帥権」を手に入れ軍が党利党略に利用される可能性を恐れたことにある。恐れたのは明治維新を成し遂げた江戸末期の下級武士であるところの云わば命を掛けて明治国家を形成した伊藤博文・山縣有朋(やまがたありとも)ら元勲だった。この元勲・藩閥が政治・軍事両面を完全に掌握、軍政(行政)軍令(軍事)運用をしていた。従って後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかった。軍人出身の政治家でも政治と軍事のバランスはとれていたと云える。ただしそれは「日露戦争」までだった。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた「日露戦争」は、ここまではあくまで欧米の植民地にはなりたくはないという日本の防衛だったということにある。ロシアの南下が死活問題であったのは、現代の我々が否定することは傲慢だと思う。

昭和の時代に入り、統帥権が一人歩きし始めたのは、前回、前々回の通り。軍事のことは、天皇が持つ統帥権を付与された機関で「統帥部」には何も口出し出来ない実態を叙述した。これをフォローするような軍部絶対の政治情勢を確実にした制度が「軍部大臣武官制」で、これを知らないと、ああまで軍人の政治への跳梁跋扈は語れない。さらにこれが「軍部大臣現役武官制」になるとこれも詳説するなら一冊の本になるほどの事項なので平たく現在の日本国憲法で云えば、防衛大臣が現役の自衛隊の制服組でなければならない、と云ったところか。現在の憲法では66条02項で「内閣総理大臣は文民でなければならない」と定められている。だが戦前の大日本帝国憲法では統帥権も統治権も天皇にあった。

第04条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(総攬=政事、人心を掌握すること)

因みにHPの「首相官邸・内閣制度」を検索すると≪明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。内閣総理大臣は「内閣官制」によって、「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第02条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。≫とある。主権が天皇にあるのだから総理大臣は、輔弼の筆頭でしかない。

軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍・海軍)の資格を現役の武官(軍人)に限る制度。現役武官であれば文官、予備役・退役軍人もお呼びでない。つまり内閣総理大臣が単なる代表で現在のように他の大臣の罷免権などないから組閣に軍部の合意が事実上必要で、逆に云えば軍部が内閣と対立したなら軍は、軍部大臣を辞職させて倒閣を行うことが容易だ。この歴史はむろん明治33年(1900)、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を規定した。大正デモクラシーの時代、「現役」は削除されたが、再び軍部の影響力が強まったのは、二・二六事件から派生したものである。昭和11年、軍部大臣現役武官制は復活する。これに屈したのは第32代総理大臣・廣田弘毅だから後世、評判が悪い筈である。都合三回組閣した近衛文麿も最後まで軍部の専横を防げなかった。防げないのではなく、そういう仕組みの憲法だったことにある。軍部大臣が現役ということは、統帥部の用兵・作戦に見合う行政の側の編成・予算にも十分に反映される。

「軍部大臣現役武官制」の制定も詳説は避けるが、やはり元凶は実質、陸軍の創設者・山縣有朋の軍事優先の政治のたまものだろう。明治から大正時代になる頃は「第二次西園寺公望内閣」だった。公家出身の西園寺は、日露戦争で疲弊していたのか、緊縮財政による国家財政再建や行政整理を理由に陸軍による「二個師団増設」の要求を拒否した。これを不満とする陸軍は上原勇作陸軍大臣が辞職。陸軍は後任の候補を出さず、軍部大臣現役武官制のために、第二次西園寺内閣は総辞職する。むろん山縣の差し金だろう。初代総理大臣・伊藤博文に目を掛けられて政治家になった西園寺と生粋の軍人の山縣とは年齢こそ違うが政敵だったことは想像できる。

山縣有朋は「統帥権独立」も「軍部大臣現役武官制」も特定の政治家によって軍部がいいように使われるのを嫌ったからと云われるが、西園寺が念頭にあったのかよく解らない。いずれにしても大正11年に山縣は死に、藩閥政治は終わり、西園寺は昭和15年、最後の元老として死ぬ。両者とも日本の軍部が日米開戦をして無様な負け方をしたのを知らない。とくに山縣有朋は「陸軍士官学校」「陸軍大学」卒業のエリート軍人が日露戦争以上の多くの死者を出して陸軍を壊滅せしめたのを、草葉の陰で歎いているに相違ない。

◇参考書
平成15年10月号『文藝春秋・父が子に教える昭和史 岡崎久彦』
『昭和の歴史06 昭和の政党』 粟屋憲太郎 小学館文庫

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