2011/9/30  22:53

日米開戦への道05-2  昭和史
参謀本部&軍令部02

前回、昭和15年・16年当時の統帥部(参謀本部・軍令部)の人事を叙述したが、違うところは日米開戦が近付くと、華族・宮様の総長は交代している。これは宮中の都合に他ならないが、統帥中枢部の戦争への高揚を危険視していたからである。中国戦線はもはや泥沼だった。軍令部総長の「伏見宮博恭王」は単なるお飾りでなく日独伊三国同盟に実質GOサインを出した宮様である。問題は昭和16年になってからの参謀本部総長・杉山 元(すぎやまはじめ)、軍令部総長・永野修身(ながのおさみ)である。この二人の経歴も長くなるので省く。敗戦後は、20年09月に杉山夫婦は責任を感じてピストル自殺する。永野はA級戦犯だったが、判決前に病死している。死者に鞭打つのではないが、両総長も中枢部の突き上げを抑えられる人物ではなかった。

敗戦後「極東国際軍事裁判」通称、東京裁判で明らかになったことだが、昭和天皇の前で重要な政策・軍事を報告して決裁を求める「御前会議」があった。国民には知らされてないことで、メディアも同罪である。この御前会議の内容は別の機会に稿を改める。事実上はセレモニーだった。

あらゆる昭和史の書で触れられるのが昭和16年09月06日の御前会議である。ここで直接政治・軍事に命令を出せない仕組みの大日本帝国憲法の範囲内で、昭和天皇は日米開戦反対の意思表示を間接的に表現した。だが政治家も軍人もそれを守れなかった。御前会議の最後に天皇が、明治天皇の御製を読み上げた。それが天皇の精一杯の抵抗だった。

 四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ

 四方(よも)=世界 はらから(同胞)=人類 波風=対立・戦争

近衛文麿首相は、米国ルーズヴェルト大統領との“日米頂上会談”に固執しているうちに09月03日「帝国国策遂行要領」が決まる。昭和天皇は「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じをうける」と納得しなかった。急遽、09月05日夕刻、杉山参謀総長、永野修身軍令部総長が呼び出される。同席した近衛文麿の『失はれし政治』に書かれている有名なくだりがある。(半藤一利著『ドキュメント太平洋戦争への道』P292〜295)毎度玉虫色の上奏だが、さすがに天皇も危機感を抱いたに違いない。軍事作戦の専門部門であれば、外交など添え物である。孫引きだが少々長い

天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。
杉山 南洋方面だけは三カ月で片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいにて片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。
杉山 支那は奥地がひらけており、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら太平洋は、なお広いではないか。いかなる確信があって三カ月と申すのか。
杉山は答えられず永野がそばから助け船をだした。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない。……統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、思いきって手術をしなければならんと存じます……」
二人の統帥部の長の不満足な、矛盾した説明に対して、天皇は大いに不満だった。そこで天皇は訊ねた。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」両総長は「そのとおりであります」

天皇は納得しなかったが、それ以上は追及しなかった。できなかったのが正解か。元勲・西園寺公望の方針は、天皇は「君臨すれども統治せず」だった。ただし西園寺は前年15年に死去している。内大臣・木戸幸一は天皇の発言要請を押しとどめている。ここに木戸幸一の最初の重大な過誤があった。木戸は天皇の「君臨非統治」の方針もさることながらテロによる自分の命の危険を察知していたのが、今では明らかになっている。

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2011/10/2  21:35

投稿者:湘南の暇人
番外編として書くつもりでいますが、実は日米開戦は決して日本の軍人は臨んでいなかったのです。軍人も馬鹿ではありません。半分くらいの確率でルーズヴェルト・チャーチル・スターリンに日本の最初の手出しを誘導されたのです。ここをわざと省いています。
メディア・世論が大いに炊き付けたのも要因です。ですが英米の思惑の情報を読みきれなかった日本の為政者・軍人が、内側の対立と責任回避に終始したのがいちばんの原因です。
英米との戦争に勝てるわけがないと思っていたのは昭和天皇だと思います。

http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/homepage/

2011/10/2  12:16

投稿者:なりひら
『四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ』、天皇の実にはっきりした不戦の意思表示じゃないですか。それ以上の命令を下せるお立場になかたことがわかります。軍部は天皇の名を「騙って」、負けると分かっている戦争に突入していったのですか。その罪や極めて重しです。

http://happy.ap.teacup.com/ibaraki-doji/

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