2012/6/30  22:31

バーデン・バーデン  昭和史
06月25日の月曜日、所属短歌会の先生方、五人が湘南・平塚へ来訪。市郊外の「花菜ガーデン」へご案内、百合とヘメロカリスが真っ盛りだった。帰路は拙宅でひとときを過ごした。筆者が相変わらず戦争と昭和史」を引きずっていることを大方は理解!?してくれた。1歳年長で短歌歴50年の先輩が昨日、新聞の切り抜きを送ってきてくれた。内容は06月28日の「産経新聞」朝刊一面の「風の間に間に」、『出湯の町からの昭和史』という記事だった。先輩は、こんなことは貴君に関係有るか無きか、といった按配。結論は大正10年の出来事だが、戦争の昭和史の基礎の基礎で、これを知らない者は、太平洋・大東亜戦争のことなど語る資格はない?ほどの重要事項。日本の近代史に名を残すいわゆる「バーデン・バーデンの密約」である。この密約こそが、戦後には軍閥の出発点だったと批判されるが、後世では何とでも言える。

大正10(1921)年10月27日、スイス駐在武官の永田鉄山(ながたてつざん)他三人の陸軍少佐がこの地で議論を交わした。詳細は省くが、第一次大戦の後の世界情勢に大日本帝国の軍部は、危機感を抱いていたからである。陸軍も海軍も長州・薩摩閥だったからである。明治維新以降、日本陸軍創設以来の逸材、日本陸軍が生んだ最高のエリートと云われた永田鉄山は、昭和10年08月、相沢三郎中佐に斬殺された。その派閥争いから翌11年に“二二六事件”が起きた。永田を失ったことで梅津美治郎・東條英機など下っ端の軍人が出てくる。戦後政治でよく「総理大臣は軽くてパアがいい」と云うのは、昭和16年の東條英機内閣から始まったのではないか。

永田鉄山といっても昭和史に興味が無ければ殆ど未知のそれも軍人である。二・二六事件の後、永田が筆頭であった陸軍「統制派」は東條英機が継承して行くことになる。日米開戦当時の企画院総裁だった鈴木貞一は、戦後「永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言った。当時「高度国防国家」という観点から軍部を改革しようとした永田は、誰もが納得する軍務官僚の本流だったらしい。古今東西の歴史・軍事・条約などに精通していて「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とも言われた。給料の殆どは「丸善」での書物購入に充てられていたと云う。(『昭和の名将と愚将』半藤一利・保阪正康 文春新書)

派閥争いのつまらぬ面子・感情論が、テロ・暗殺を助長し、日本陸軍の誤ったアクセルになったことは論を待たない。「バーデン・バーデンの密約」は後日、もう少し丁寧に記述したい。バーデン・バーデンとはドイツ南西部の山間の温泉地である。将来を嘱望されたエリート軍人はほとんどがドイツに学んでいる。

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