2013/9/13  15:31

墨田区石原  昭和史
テリトリー東京 番外編 墨田区石原
昭和32年上京、最初に住んだのが墨田区横川橋、中学は墨田区石原の「錦糸中学」。校舎は「東京大空襲」で焼け残ったのか、3階建の3階は荒れたままだった。上京してすぐの感想は“川”が臭ったこと。墨田区・江東区の川は、縦横に整然としていて川と呼ぶより「運河」だった。これを利用して江東区には「木場」があって材木問屋がひしめいていた。筆者の通った錦糸中学は一学年8クラスあって、50×8=400人も生徒が居た。その後は生徒数が増し10クラス以上あったと聞く。筆者より5年後輩が、同じ短歌結社の○○みよ子氏。筆者と同姓である。この中学は現存する。

筆者が小さな印刷会社の住込み工員で都内を転々としているうちに、親交があったと思う級友と音信不通になった。すべては自己責任。「石原町四丁目」の商店街のなかに別の友人の名があった。そろそろ筆者の短歌文庫『相生坂』が完成する。これをいきなり送ってみることにした。

墨田区本所江東区深川は、昭和20年03月10日の大空襲で焼き払われた。実に10万人が殺された。以下は2011・03・15のブログの記述の再録。

10万人は、軍人・軍属ではなく無辜の東京市民、さすがにNHK・首都圏ニュースでは短いが、慰霊祭が行われたと報じた。ここでその経緯を詳説しないが、二年前「文藝春秋増刊 くりま・半藤一利が見た昭和」で、半藤氏は、その阿鼻叫喚を赤裸々に語っている。昭和05年生まれの半藤少年は、墨田区中川に火を逃れて飛び込み、船に助けられ、更に転落したところを名もない大人に襟首を掴まれ引き上げられ、とても裸足で歩けない惨状の道に、これも名もない人に靴を与えられて生き延びた、と証言している。川に飛び込めなかった子供連れの主婦がいとも簡単に炎に包まれたのも傍観せざるを得なかった。

米軍は大正12年の「関東大震災」を詳しく研究、どうしたら東京市民を大量殺戮出来るかを入念に考えた。B29爆撃機320機、投下爆弾38万発、1783トンでは「木と紙と土」でできた建物の下町は計算通り効果的だった。

広島・長崎の原爆、この大空襲も昭和26年の「サンフランシスコ講和条約」で不問に付された。卑怯の汚名未だ晴れない「日本海軍真珠湾攻撃」は昭和23年の「極東国際軍事裁判」通称東京裁判で不問に付された。これを追及するとルーズベルトの暗号傍受の経緯が明らかになるからである。この大空襲を指揮したカーチス・ルメイ米国陸軍少将に何故だか東京オリンピック開催の頃、日本国政府は「勲一等旭日章」を与えた。馬鹿らしい話だ。

大空襲でも救世軍のある神田、神田神保町、ニコライ堂、皇居は意図的に避けたとも云われている。筆者は何度も口にするが、戦争はリアリズムである。「欲しがりません勝つまでは」などの掛け声は小学生でも言える。日本を屈服させるまでは容赦のなかったアメリカ政府、負けた戦争を早く止められなかった日本政府の罪は重い。犠牲者は庶民である。

画像は“墨田の花火”。アジサイの一種。

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