2014/4/17  23:51

増田宗太郎  日本史
韓国の執拗な“日本批判”が気になるので記憶にあった福沢諭吉の「脱亜論」を思い出した。福沢は朝鮮改革派の朝鮮人を支援したことも解った。金玉均(キンギョクキン、キムオッキュン)は、一時福沢宅に匿われたが、李氏朝鮮の宗主国・清にわたり捕えられ殺され晒し首にされた。頑迷固陋な朝鮮半島に近代化など無理で教育者の福沢諭吉でさえ見放した。

その福沢を検索して大分県中津市留守居町の「福沢諭吉記念館」を知った。一万札の肖像画だから教育者・啓蒙家・慶応大学創始者であることは知っている。「学問のススメ」でも名高い。この検索で知ったのが増田宗太郎(1849生)。福沢の再従兄弟でもある。この増田が福沢の暗殺を狙ったこともあるらしく読んだことはないが『福翁自伝』に記述されているらしい。≪明治03(1870)年に帰省した福澤の暗殺を企てた。増田宗太郎は、西洋かぶれの諭吉を暗殺しようとしたが、諭吉は来客と朝まで酒を飲んでいた為、果たせず、その後意見を変え、上京して逆に福澤家に寄宿しながら慶應義塾で学んだ。明治10年に西南戦争が起こると旧中津藩士族たちを率いて参戦、西郷軍に合流して城山で戦死≫増田は28歳で戦死。惜しい人物だと思う。眉目秀麗だった。

「西南戦争」はウィキペディアでA4用紙40枚、読むだけでタイヘン。要するに改革派の大久保利通が政府軍を率い、天皇の名代に有栖川宮熾仁を担ぎ、守旧派に担がれた西郷隆盛は鹿児島で死ぬ。西郷こそが旧島津藩の本流だった。だが「廃藩置県」で明治天皇が日本統一の「殿様」になり、新政府の格下でも大久保に政府軍と近代兵器を握られたら大西郷でも勝ち目はない。岩倉も木戸も、そのころ病死?していた。

西郷主導の「征韓論」は朝鮮を征服するものではない。“征く”は遣韓論が正しい。ここで「脱亜論」に繋がる。日清・日露戦争は明治時代前半の人物に触れないと到底理解し難い。画像は福沢諭吉記念館(大分県中津市)の旧居。

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