2014/4/18  22:09

海軍甲事件  昭和史
71年前の昭和18年04月18日、当時の大日本帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもといそろく)海軍大将は、南方・ラバウル基地を飛び立ち、米軍機に撃墜されブーゲンビル島に墜落、戦死した。「海軍甲事件」が正式名称。筆者は19年生まれだからその前年のこと。以下は3年前のブログ再録。

今日も山本五十六海軍大将(死後・元帥)が評価されるのは、終始「日米開戦」には反対だったからである。山本搭乗の偵察機はアメリカ軍の暗号解読にキャッチされ、撃墜されて戦死するが、詳細は今も謎。自殺だった可能性も指摘される。撃墜後、生きていてピストルで胸を撃ち自ら命を絶ったとも言われる。後世、唖然とするのは、山本の死を確認した海軍・陸軍の兵士も、その後、秘密隠匿の意味で、南方の最前線に送られ、全員が戦死していることにある。それらの兵士に生前接触した新聞記者の伝聞が山本自決を伝えていることになる。この年の秋に“学徒出陣”が始まり、翌19年秋には“神風特攻隊”出撃となって大日本帝国は坂道を転がって行く。

大正時代、アメリカの駐在武官を経験した山本はアメリカの国力を十分に認識していた。日米開戦前に「東京は今に焼け野原になる」との山本の予言は的中した。山本五十六の自決は(アメリカ軍からは暗殺)は、筆者には「日米戦争を早く終結させろ」との軍部・政治家・世論への無言の警告だった。

陸軍の機構・組織のことだけしか知らない東條英機が総理大臣であれば、世界の大勢など無頓着で都合のいい数字を並べて昭和天皇に上奏していた。それが理路整然としていたから天皇に信用されていたことになる。騙したつもりがないから余計に始末が悪い。東條には山本の戦死は何の意味もない。その秋に「学徒出陣」で多くの若者を死に追い遣った。

画像は昭和16年12月08日の真珠湾攻撃(日録20世紀1941・講談社発行)

クリックすると元のサイズで表示します
2


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ