2014/4/26  22:17

山本五十六01  昭和史
山本五十六(1884・明治17年―1943・昭和18年)を語るとき、今日でも度々取り上げられるのは、その洞察力の明快なことにある。細かい経緯は省くとして日露戦争に従軍したこと、その後の米国駐在武官などで早くからアメリカの国力を知悉していたことに拠る。

◇1905年(明治38年)日露戦争日本海海戦にて戦傷。
◇1919年(大正08年)ハーバード大学に留学。
◇1925年(大正14年)米国在勤帝国大使館附武官
◇1929年(昭和04年)ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員。
◇1933年(昭和08年)ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表。
◇1936年(昭和11年)永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢。

当初ロンドン軍縮会議では海軍の立場上、軍縮に反対したが、後、世界的な軍縮会議の決定に従い所謂「海軍条約派」の意志を貫く。反対派は所謂「艦隊派」である。日露戦争の勝利以来の伝統的な漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦を“金科玉条”とする。つまり太平洋を渡ってくるアメリカ艦隊に対し、駆逐艦や潜水艦などの小部隊で襲撃を繰り返して戦力を減らす。最後に日本近海で待ち受け、戦艦を中心とした主力部隊が艦隊決戦で勝負をつける作戦。

第一次世界大戦処理の「パリ講和会議」(1919・大正08年)の頃は、山本はアメリカ駐在。デトロイトで車社会を知ることになる。山本が航空機を意識するようになるのは、駐在武官経験あとの大正時代末期。むろん近代国家の総力戦に他ならない「第一次世界大戦」を知ったことだろう。その頃は民間経済も軍事力も石炭を炊く「蒸気船」が主流だった。航空機など陸海軍軍人さえもよく知らない。山本の主要な発言を知ると、そのことが良く解る。

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