2014/5/7  21:27

伏見宮博恭王  昭和史
近代史に興味がなければ殆ど知られていないのが、伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)。遠く南北朝時代の北朝3代・崇光(すこう)天皇が祖先で明治08年(1875)生の大日本帝国海軍軍人。皇族出身の軍人だから単なるお飾りなら問題ない!が日露戦争で活躍した軍人の軍令部総長で“日米開戦”への道筋となる「日独伊三国同盟」にGOサインを出した(詳細は次回)。皇族に戦争責任が及ぶのは拙いと日米開戦前に軍令部総長を退いている。人物の詳説は避けるが昭和天皇より26歳年長の大伯父で対米強硬論者だった。

このブログで何度も記述するのが軍令部とは大本営で戦争作戦部門。大日本帝国憲法では統治権より統帥権が富国強兵政策で幅を利かせていた。

◇統治権→内閣行政→陸軍省・海軍省→予算・用兵 主権・昭和天皇
◇統帥権→戦争作戦→参謀本部(陸)・軍令部(海) 主権・大元帥(昭和天皇)

昭和12年からの林銑十郎、近衛文麿、平沼騏一郎内閣では、海軍大臣は、米内光政(よないみつまさ)だった。平沼内閣では海軍次官が山本五十六、軍務局長が井上茂美(しげよし)。このトリオは終始、日独防共協定・日独伊三国同盟に反対。米内は海軍の立場上、山本は英米協調派、井上はヒトラーの「吾が闘争」を原書で読んでいて、ナチスドイツに傾く陸軍に終始反対した。

昭和史に興味が有るといっても今「目から鱗」の知識は、当時海軍には“憲兵”の制度が無かったことにある。陸軍の憲兵組織は、国粋主義者とつるんで?で日独提携に反対する海軍を脅迫していたのが事実。だがどんなにこのトリオが反対しても戦争遂行部門の軍令部総長の言うことは絶対で、昭和天皇でさえ防ぎきれなかった。伏見宮博恭王は辞任後も事実上院政を敷いた。

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