2014/5/9  21:41

山本五十六03  昭和史
山本五十六に関する著作は数多い。半藤一利著(平凡社新書)、阿川弘之著(新潮文庫)などがあり、それらを読めばいい。ここでは山本が抜擢された昭和11年(1936)頃に焦点を当てる。よく知られるのがこの年の二・二六事件、岡田啓介辞任後の首相は廣田弘毅(32代)で外交官出身、吉田茂が同期。

山本が政府・海軍省の海軍次官に抜擢されたのは、当時の海軍大臣で4年先輩の永野修身の推薦。共にアメリカ・ハーバード大学に学んだから親近感があったのかも知れない。だが事実は、筆者のみるところ陸軍の横柄さが嫌になったのからだろう。陸軍の横槍で廣田内閣は潰れ、後任は林銑十郎、陸軍の予備役でいわば一丁上がりの元軍人、“何もせんじゅうろう”と云われた。これも昭和12年すぐに退陣する。海軍大臣は永野と同期の米内光政。昭和15年、米内・山本・井上のトリオで「日独伊三国同盟」を阻止するが、昭和11年後半には「日独防共協定」は既に締結されていた。政治が軍人主導になる。

この協定は、共産主義ソ連の脅威から日本を護るためのもの。だがナチス・ドイツの外務大臣・リッベントロップと云わば“ドイツおたく”の陸軍軍人・大島浩が推進した。むろん後世から見ればドイツの政略・戦略だった。ヒトラーは「吾が闘争」で日本人を嫌っていたが、当時の反英・反米感情が「親独」になるのは自然の流れだった。親衛隊の「ヒトラーユーゲント」が昭和11年に来日、礼賛したのは朝日新聞、靖国神社に詣でているし歓迎の歌は北原白秋が作詞した。だがこれが虚しく終わるのは「独ソ不可侵条約」(1914)締結だった。

山本は林、近衛、平沼内閣で2年半、次官で頑張る。だが廣田内閣でできた「陸海軍大臣現役武官制」で陸軍が、大臣を「出さない」「引き揚げる」と云えば内閣は簡単に潰れた。画像は親友の堀悌吉、左側が山本五十六。

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