2014/9/6  22:44

昭和16年9月6日  昭和史
日米が開戦を余儀なくされた昭和16年12月8日より約3カ月前の9月6日に昭和天皇を仰いだ「御前会議」が開かれた。「帝国国策遂行要領」を報告するためだが、筆者の「無明庵」で取り上げた。(NHK特集・H3年)
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyou03a.html
ここで昭和天皇が、祖父の明治天皇の御製を読み上げる形で、対米開戦回避を示唆したと昭和史の本では解説されている。

◇よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
◇四方の海皆同胞と思ふ代になどあだ波の立騒ぐらむ(NHK特集)
 四方の海=世界中、同胞=家族、波風・あだ波=争い
 世界中の国々は皆兄弟姉妹だと思うが何で紛争など起こすのだろうか。

これまでに読んだ昭和史の書では、昭和天皇が「日米避戦」の意思を間接的に表明したものと解釈されてきた。だからこそ“読書”人口に膾炙する。だが添付の著書の平山周吉は、昭和天皇は日米開戦を止む無く支持したのではないかと示唆する。断定してはいない。縦軸の時系列、横軸におけるあらゆる関係者の発言、事の経緯を探索している。会議の最期に御製を読み上げた時、天皇は「メモをお持ちになった御手がわなわなと顫(ふる)えておいでになった」との史料を発掘、紹介。同時に大本営陸軍・杉山元参謀総長、海軍・永野修身軍令部長へは、大本営中枢部組織の熾烈な“突き上げ”があったことを仔細に指摘。むろんお飾りの二人はひたすら軍部を代弁するしか無かった。

『昭和天皇独白録』などを読めば天皇と云えど「開戦NO」と指導する!ことは憚られた。大本営中枢部が好戦的なのではなく日米避戦の選択肢は無かったのが真相。内大臣の木戸幸一などがいちばん自分へのテロ・暗殺を恐れたのは知られている。陸軍は中国本土からの撤退、海軍は「アメリカに勝てない」とは絶対言及しなかった。軍人こそが「我が身可愛さ」の自己保身だった。哀れなのは戦争を忌避できない末端の兵士、310万人が戦死・餓死した。

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