2015/5/21  22:59

隅田川に架かる橋  昭和史
半年ぶりにホームページを更新した。116回目、旅のページを「旅ブログ」に移行したりしたのでページそのものは減っている。

今年04月に中央区─江東区に架かる清洲橋を撮影、05月17日は暑さがやってきたが、半ば熱中症になりながら、これも中央区─江東区に架かる永代橋を撮影、タクシーで移動、勝鬨橋を撮影。そのあと短歌会例会に参加、14000歩。、このへんが限度だ。隅田川に架かる南側から勝鬨橋、永代橋、清洲橋は、景観はむろんだが何より建築工法に価値があり昭和前期の架橋でもあり平成19年、国の重要文化財に指定された。

昭和46年当時、29倍の競争率を突破、江東区佐賀町の「深川佐賀町市街地住宅」に当選、いわゆる団地族。だが今では刑務所の独房のような四畳半と流しと玄関だけの風呂もトイレもない公団賃貸住宅。公団住宅は八階建ての三階以上、さすがに建て替えなのか閉鎖された。ビルの持ち主は「ちくま味噌」の乳熊ビル。このビルは永代橋の脇にあり西側は隅田川を臨むいわゆるビューポイントにある。ビルの脇には「赤穂浪士休息の地」の石碑もある。

大正時代の原敬(はらたかし)内閣の「ワシントン海軍軍縮会議」の条約締結で、鋼鉄が大量に余り、関東大震災にも遭遇、それを期に10橋も架橋された。前記3橋は東京湾の入口に当たるので帝都復興のシンボルになった。隅田川の橋は軍縮の象徴なのに以降、昭和前期はいわゆる軍国一辺倒になり、つまるところ東京は焼け野原になった。焼けたのは墨田区・江東区の街、3橋は無事に残っている。無機物より東京市民を焼き殺すのが目的だったのが現実。添付は永代橋。昭和47年まで都電も通っていた。

月末の仕事の原稿が到着。ブログしばらく休みます。

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