学校、教育委員会といった枠でのみ考察するのは短絡的かに思えるけれど、その枠組みでの話をしよう。
まず、直視すべきは事実だ。それぞれのメンバーが自分自身がかわいいのはわかる。しかし、だれから見ても、いじめと思われる文書を残して女児が命を絶っている事実をふかくとらえなければならない。
昔と違って、昨今のいじめは、陰湿きわまる場合が多い。どういうことなのかといえば、暴力によらぬが、クラスには正義がなくなるということだ。具体的に言えば、ある者をクラス全体が無視したり、いやがらせを繰り返すようなタイプだ。鈍感な教師は気づかないらしいが、おそらく気づいてもどう解決したらいいかがわからないというところだろう。
このようなクラスの状態の発生には、社会背景が大きい。たとえば、先生が悪いことをした生徒を頬がはれ上がるくらいに殴っていた時代には、こんなねちねちしたいじめがあったか。おそらくなかったであろう。かりに、それにちかいことがおきても正義感の強い子がたすけたかもしれないし、先生に言うぞという一喝でことが収まったかもしれない。
そのような時代の指導は、今日否定されているが、現在の社会では絶対に解決できないジレンマは当時はない。
それともちろん生徒自体のうたれ弱さもあろうが、これは理由にはならない。人は本来弱い存在だ。それを耐えろということはできない。
次に直視すべきは、なくなった女児が通っていた学校で、普通に授業が行われているという事実だ。そこでとわれるべき責任というものがあろう。たしかに子供には責任能力がないかもしれない。しかし、そのいじめに加担した児童がいれば、その保護者は肝にめいじるべきであろう。そうして一生少女の死を背負って生きるべきだ。
まとまりとしては不十分であろうが、私見をのべれば、学校や教育委員会などの関係者がプライドをもって対応できるように、社会全体が変わるべきであり、そうしてまた
人の刷新が必要であろう。一人ひとりの経歴や採用経緯などもあきらかにして不適格な人材は不要とすべきである。ほんとうに子供のことを考えられる者のみで構成すべきであろう。これには、法改正が必要とされよう。自らの保身のみ考えるような連中のみが公教育の背景に陣取っていたのでは、このような事件は残念だが今後も絶えないだろう。はっきりいって、学校に抜き打ち的に見学すればわかるはずだよ。偉い人みたいな格好じゃなくってね。それがだめなら、各教室にモニターでもつけるしかあるまい。そうなると、もはや人による教育は期待できないが。

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