これまで塾をやっていると、卒業した塾生にも、塾で教えている者もいる(学校の教師になっている者もいるが)。塾で教えている者の多くが一時的なバイトだ。彼らは私に、「先生のようには教えられない。」という。それは、私の教え方、そのものにかかわる。明成では、時間割はあってないようなものだ。どういうことかというと、その時間に生徒の必要と考えることやっているからだ。
卒塾生のバイト先の塾(大小にかかわらず)をはじめ、ほとんどすべての塾が決められた予定の授業をやっている。そうすると教える雇用された先生は、ここまではしなければならないという枷をかけられて、その日を終わる。私に言わせれば、これが、できる生徒、自分からすすんでやる生徒のみをよく伸ばし、その他の生徒はあまりのびないであろう本質的な理由となっている。たとえば、バイトの講師であるA君が、彼の教える生徒の半分の理解が悪いと感じても、まあいいか・・・どうせ・・俺には関係ない・・・的になる。またA君に、仮に、自分の経験や、明成での教え方をみてきて、こうすれば伸びると確信しても、それを実行することは許されない。
伝説的な成績の伸びは、平坦な・・・塾に行きました・・・帰りました・・と言ったパターンでは起きない。生徒の側にも過激な変化を生み出すパワーが必要であり、それを可能にするだけの塾のパワーも必要だ(もちろん、ここでのパワーは立派な広告をだす力ではない)。
明成に来た生徒は、時間割りがないことに驚く。はっきりいうと、行儀のいい時間割など成績の伸びには邪魔だ。個室としての勉強部屋がない方が成績が伸びるといった住宅の構造の話も近年耳にする。これも形を廃したところに、実があるという点で、共通するところである。
ところで、どうだろう。どのくらいの成績のアップで「伝説」といえようか。明成では8割の伸びで、ひとつの区切りとしていた。学年100位であれば、20位より上にあがることだ。その程度ののびは、以前であれば続出したものだが、最近では6割7割程度の伸びがいいところだ。
しかし、以前のような気持ちで、100位から40位程度まで伸びた生徒に対して、「たいしたことない。」と今言うのもなかなか難しくなってきた。それは、生徒のなかに闘争心がなくなってきたからだ。別にそんなにあがらなくていいという考えも多いのではないか。
私自身、伸びなくていいといった気持ちで塾に行っている生徒は、なんのために塾に行っているのかと考えることがある。もちろん、そんな生徒が集まる塾もあり、否定できないことも社会学的には確かだろう。しかし、ある時点ではたと目が覚めて、明成に転塾してきて、どうすれば、伸びるのかを必至で説く私に、「前の塾ではあまり成績を伸ばすことを真剣に考えてくれなかった。」と言うことがほとんど。
塾にもいろいろある。保護者の方も、夜のある時間帯に子供が塾に行っていること=勉強をしている=まず一安心・・・といった方もいよう。しかし、明成塾は異なる。ここに来た生徒は、必ず伸びなければならないし、そのつもりで必至で教える。なぜなら、ここはひとりひとりに、これまでにない伸びの伝説を経験してもらう塾だからであり、将来振り返ったときにも、人生のターニングポイントとなる塾だからである。
ところで、卒塾生でバイトで塾などで教えている生徒には次のように言っている。
「その塾の方針にしたがって、その範囲で教えればいい。そうすれば君は責任を果したことになる。その生徒が理解できなくても、それは君のせいではなく、そこを選択した側の問題だ。」と。明成で伝説の伸びをした彼らにとっては残念だろうが。

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