最近のさまざまな犯罪は、どこか非人間的だ。犯罪は倫理的にも反社会的な行為を処罰するものであるから、すべては許されるはずもないが、・・・にも三分の理という言葉があるように、犯罪者側にもある種の言い分が成立する場合もあった。しかし、非人間的であれば、それすらない。
アルバイトの塾講師が、中学受験生を殺した事件は記憶があたらしい。もちろん、刑が確定していない段階では、その講師について厳密な意味では「犯人」とよぶことはできない。弁護側が心神喪失ないし心神耗弱による行為であると主張しているからである。仮に心神喪失となるとその講師が処罰されることはなく、彼は無罪、つまり法律上は犯罪者ではなくなる。
この事件で私が考えるのは、社会と塾との関係についてである。私も小さな塾をやっているが、私の思いは、塾にこられた生徒さんが、ここにきて勉強し、そしていろんな話をするなかで、将来について考え、そしてまたよき友人をつくってくれればと思うのである。そこで、保護者のかたからの相談はいつでもうけるようにしているし、いつでも卒塾生もあそびにこれるようにしている。塾のスタイルをたとえれば、さしずめ江戸期の寺子屋の現代版といったところであろうか。そして生徒も定員制としており、あのような事件がおきることは、地球が爆発するのと同程度にありえない。しかし、一方では、そのような可能性をはらんだ塾を知らぬ間に保護者のかたが選ばれているのも事実かもしれない。
おそらく真の意味での塾と保護者の間の対話が欠けているのではないだろうか。塾に通うこどもが塾内の様子を伝えている場合には、どのようになっているのかを聞いてみることが大切だ。たとえば、塾に通っていても一向に成績がのびないなどのことであっても、その理由を塾側に聞いてみる。あるいは、授業を見学してみる。本来、塾の授業については、保護者が見学してみなければ、わからないことが多いと思われる。そうすると、塾の講師の言動もわかり、その授業方法なども明確にわかる。
昨日、よるの報道番組で、銀行の再生を行われた偉い方が、日本人について話されていたことに、他の国に比べて日本人には「世間」体を気にして行動するという性質があるという旨をおっしゃていた。こどもの小中学などの塾通いは、ある意味で、その子の人生を左右する。保護者のかたは、そんな大事な選択にどうかかわりあわれるのか。「うちの子を教えていただく先生はどんなかたでしょうか。」の質問に「はい、優秀な先生ですよ。」式の答えで大丈夫なのか。「(実は、この数ヶ月前に求人案内をだし採用したアルバイトの先生です。いつやめるか分かりません。)」といった内なる声が保護者のかたの耳に響いたら、どうされるか。やはり大切なのは、心からの対話だと思われるのである。塾を選ばれるときには、そこにわが子の時間を預けてもいいと納得いかれるまで塾側と話されるのがいいだろう。あの事件のおきた塾で、すぐに授業再開の要請が他の保護者からあったようにも聞く。もしそうであるならば、事件をおこしたその講師を受け入れる土壌がすでにそこにあったようにも思われる。命の尊さを考えれば、あまりにも利己的過ぎるからだ。人が人生をいかに生きるかは、自由であるけれど、それでいいのか?いう気持ちが生じた。

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