その音のもつ響きなり、その言葉にイメージなりが好きではない言葉は多い。これはあくまでも個人的なものだ。
例えば「勉強」と言う語、例えば「教え子」と言う語、例えば「先輩」と言う語・・・塾で生徒に勉強を教える身でありながら、上記の言葉があまり好きではない。例えば「教え子」という言葉は、確かにある時期において学習の方法なりを教えたという事実はある。しかし、実際に教えるという作業以上に、人生における大切なものを子供たちから教師の側も学んでいると考える。つまり、私にとって、生徒という存在は、ある種のものを教えてもらう存在なのだ。生徒たちが、塾を卒業され、次の高校なり、大学なりに、あるいは就職をされ、あるいは専門学校などに通われたりしている。個人は個人でしかなく、しかしまた対等な個人という見方が私のなかにある。確かに、教科に関し、教え教えられるという関係はある。そのとき、師弟というつながりがある。やはりこの語には、師弟間の相手にたいする敬意というものが存在する。人が相手を尊敬しあわなければならない点は、年齢に関係ない。
当塾の卒塾生のみなさんのなかには各方面で活躍されている人も多い。
なかには予備校の講師をされていたり、塾で講師をしている生徒もいる。私自身学生のころ、いくつかの塾などでバイトをした経験からいえることは、能力の高い人ほどバイトの講師は面白くないと感じる。なぜなら大手の塾などではひかれたレール上で授業をしなければならないからだ。たとえ「わたしならこんな方法が生徒のために役に立つと思う。」と考えて違う教材の差し替えをもとめることはできない。たとえば生徒思いの優秀なバイトの講師がいて、ある一人の生徒の合格法を個人的に考えたとする。しかし、授業外でその生徒を呼び出して指導することは、できない。私が塾をはじめたきっかけは実はこのようなバイト時代の経験にもよる。ある塾で学生のころ、塾の一切をまかされた。つまり学生でありながら、すべて自由にやってよいというわけである。その塾のメソッドを自分なりに短期に確立した。数学は大量に手書きのテストを作成し、英語は教科書の暗記を大声をだして行うなどなど。信じられないかもしれないが、授業時間は一こま40分程度とし、その合間に30分ほどの遊びの時間をつくった。生徒はマット(巨大なマットがいくつかあった)で遊んだり、エアガンで遊んだりしていた。生徒たちの得点はどんどんのびた。当時6人の生徒男子5人、女子1人がいてそのうち5人がトップ高校に進学した(うち一人は後に東大進学)。これは生徒のだれもが目を輝かせ自主的に学習していたころのお話である。気のせいか、世界はいまよりも華やいで、そしてあかるかったように思われる。
それから、かなりの歳月がたった。しかし、家庭の事情で3学期にやめたO君のわかれの言葉、みなの靴をならべていたTさんのやさしさ、そしてMくんの落ち着いた話し方。Hくんの数学のひらめき。Gくんの授業中のジョーク。そしてTくんの「わからないよ」の連発は今も忘れられない。私にとって一人ひとりが教え子ではなく、尊敬の対象なのだ。

1