昨日は中学の卒業式だった。明成塾に在籍し中2途中諸事情でやめた少年がいる。彼の人間的なすばらしさは通塾時にとくに感じていた。素直さ、素朴さ、そして明るさ。
現在の塾というものは、その機能の多くが、受験での成功や、学校での成績のアップである。しかし、その一方で明成塾では、何らかの語らいの場、未来を考える場としての役割を、おこがましいが担っていると考えている。そのようなわが塾においても、昨今の生徒は若干無味乾燥的。よく言えばgive and takeだ。だから卒塾と同時に塾に現れる者もすくない。これは現在の社会の投影なのだろう。
かつて、こころから合格発表の掲示板の前で保護者の方ともども喜び合ったころとは、どこか違っている。すなわち保護者様のなかにも、「成績アップをよろしくお願いします。」と連呼されていたかと思えば、卒塾後は手のひらを返したように知らない顔をされる方もおられる。このような現象は、一昔前にはまったくない。おそらく日本社会構造が、信頼関係ということよりも形式主義に落ちているのだろう。
そのようななかでバスケ少年の卒業の挨拶は、光り輝くものがある。その礼をつくす行為には、単に勉強をしてレベルの高い高校に入る、ただそれだけの人間にはとうていまねできない次元の価値がある。現代社会では、ただの勉強家である子供や、自分勝手な行動をする子供、それでいてそれを個性だと履き違える親などは履いて捨てるほどいる。そしてその多くが人生の価値を見誤って一生を過ごすかもしれない。
礼の心は、すでに希少価値の域にあろう。突然のバスケ少年の来訪が、あまりに他との違いを示した。彼はおそらく、人生において周りの人に愛されるであろう。そしてすばらしい友とめぐり合うだろう。彼の未来には必ず明るい光が注いでいるはずだ。T君よ、ありがとう。

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