誰もが、相対的に「井の中の蛙」だ。私自身それを棚に上げているわけではない。
熊本という小さなエリアで高校について論じるとき、日本というベースで考えれば、笑いのネタにもならないだろう。中学生のときには、私は〜中学よ。僕は〜中学の生徒だよ。というような枠を自分のアイデンティティーと錯覚しがちだ。また塾生のなかには、先生、〜君は〇×スクールにいっているとか、〜さんは△□塾に行っていいて頭がいいとかいう話もきく。はっきり言えば、それらの表現は、きわめて消極的で意味をなさない。塾などが、〜さんや〜君の学力を決定しているわけではなく、その生徒たちが頑張っているということなのだ。考えてみればわかることだが、昔は中学生の塾通いなどはほとんどなかった。それでいてトップ高校に個人的努力により合格を決めていたのだ。よく塾などの、「〇×高校・・名合格!」などという宣伝を見かけるだろう。賢い人ならわかるはずだ。いったい何名が受験して、その合格者をだしたのか。塾を選ぶときそれを聞いてみるのもいいだろう。そうすると、県全体の公立高校の合格率があらかじめわかっているわけであるから、それと比べればいい。もしある塾の合格率が、66%だとする。そして県の合格率が64%だとすると、その塾の合格率は、微妙に高いだけなのだ。
数にはいろいろな錯誤を起こす要因があるようだ。いかにも〇×高校へ・・・名ごうか〜くジャガジャン!とか見ると、おっスゲーと思うだろう。しかし、合格数という事実と並行して合格率という上位の事実があることも知っておかなければならない。
未来の話をすれば、やはり必要なのは楽しい学校の復興だ。そこには、尊敬の対象となるべき教師と、一方には礼儀をわきまえた生徒および保護者の存在が必要になる。腹を割って話せる友人がつくれるような学校。もっともっと広い視野をもつ生徒をそだてる教育。未来においては受験産業としての塾の役割はある意味不要だ。もちろん、広い視野をそだてる教育に携わる機関が私的に存在することはのぞまれるかもしれない。大切なことは、自分の考えを育てることであって、それはゼニのためではなく人のために貢献する精神をそだてることである。現在の日本社会は、虚の信奉で成り立つ部分もすくなくない。それに気づいている中学生諸君もいるだろう。大人の中に本当に尊敬すべき人物を見出せないのではなかろうか。
まずは、井の中の蛙になることを自分なりに避けていくことが大事だろう。それには真実を追求する心が必要となる。

0