幸福、ないし幸福感は個人的なものであろう。しかし、一つの言葉に集約される概念である以上、そこには共通要素というものがあるのではなかろうか。それを深く探求しようとすればきっと永遠のテーマかもしれない。
都内で誘拐事件がおきたのは記憶に新しい。逮捕理由は、監禁罪ということであったが、身代金目的の誘拐事件のようだ。その事件について言及することはないが、一言被拐取者の女性が無事であったのはなによりだった。
ところで、この事件の被疑者らが、その女性を誘拐しようと計画した経緯には、その女性の母親が著名な外科医であり、資産を有するという情報を得ていたという点にあろうといわれいている。なにしろTVなどにも、その医師は出演していたという。事件についてのテレビの報道などを見て、そのことをはじめて知った。その女性の自宅が映し出されている場面も報じられていた。ある場面が、興味をひいた。「(家には)服がほとんど置かれていないのはなぜか」というようなことをレポーターが問うと、その女性(医師)は、微笑んで「季節ごとに処分するから」というのである。そして、その衣服代がおよそ400万円だとも言っていた。ガレージにはおさだまりの高級外車である。
ここで対極として、日々あくせく働く一般人をあげるつもりはない。なぜなら、その女性はゼニを稼ぎ一人娘を幸せにするために自ら医学部に入り、そして念願どおり医師国家試験をパスし、一等地に開院し現在に至っているいわば『成り上がり』であり、根本的にそこまで対極にあるという存在ではないからだ。
俺が思ったのは、そのような物により自己を誇示する生き方のどこに幸福が見出せるのかということである。甘っちょろいだろうか。確かに人は生きるための糧として、物が必要であり、そのために財産を持つのは、人としての本質にかかわる。それは歴史が証明している。しかし、ここでの話は、そのような人権レベルの問題ではない。もてる者の幸福感が果たして、季節ごとの衣服の処分や、高級外車の所有により満たされるのかである。
このアンチテーゼにも近い行動が、世界で2番目の富豪と呼ばれている方が、4兆円以上の資産を、財団に寄付するというものである。その老人は築30年以上の家にわりと慎ましやかに暮らされているらしい。
俺個人としては、幸福の本質は、抽象的言い方になるが、他者との間の
人格の交わりといえるべきものの中にしかないと確信している。だから、生徒の皆さんには、部活やら遊びにも熱中せよ、友だちを大事にせよ、自己のやりたいことを探せとは言うが、将来銭をためる計画をたてよとは言わないわけである。

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